ドキュメンタリー映画を紹介します

 

  



この映画は、30年前、各地の地方公共団体の職員研修に使われました。

行政マンとしての郷土に寄せる熱意と住民を巻き込んだ「広松伝」さんの 
仕事の流儀が、行政の人々にも不可欠な生き方として共感されたからです。
また、
環境浄化を実践する市民レベルでの取り組みの 良き事例となりました。






今の柳川風景を作った市役所の 係長「広松伝」さんは、

都市計画道路に待ったをかけた「関さん親子2代の執念」

と、通じるところがあると思います。

だから紹介したい。





今、松戸市役所で働いている人は、トップ以下、ゆるーい仕事振りです。
昨年末の、松戸市議会定例会ネット中継---山中議員とのやりとりを聞いていてそう思いました。
一般企業なら、あんなヤワでは会社は傾きますぞ 。 

そこで知って貰いたい。この広い日本には、たくましい市職員さんがおられることを。
   
年間100万人以上の観光客が訪れる水の都、福岡県・柳川市。

ここには、かつて暗黒の時代がありまして、高度経済成長期になって生活排水が大量に流れ込み、ゴミが捨てられるようになったため、水路を埋め立て、駐車場などにすれば利用価値が高まるという都市計画が実施されそうになりました。

市役所の一係長が、水路の歴史的な役割などを調べ上げ、むしろ浄化して生活に役立てることを逆提案、柳川の水が甦ったという実話です。

柳川市役所の元係長「広松伝」さんの講演を聞いて下さい。

広松伝さん講演「柳川堀割物語」  ↓クリック


広松伝さん講演「柳川堀割物語」

2002年(平成14) 広松氏は64歳で急逝


掘割を守る


郷土の偉人「北原白秋」 柳川市役所制作の動画 2作


165分間のドキュメンタリー映画「柳川掘割物語」(1987年公開) を紹介します。 






Amazonで買えます。
新品、中古あり。

2000円から3000円くらい。






ニコニコ動画で見る----なぜか無料です



ニコニコ動画では
  1から11までに 分かれています

普通に見ると コメントが出て 見にくいですが
→の右をクリックして コメントを表示しない設定にして下さい

なお 最大画面で 御覧下さい
そして どうしたら 見やすくなるか 研究してみてね


柳川堀割物語 その1
柳川堀割物語 その2
柳川堀割物語 その3
柳川堀割物語 その4
柳川堀割物語 その5
柳川堀割物語 その6
柳川堀割物語 その7
柳川堀割物語 その8
柳川堀割物語 その9
柳川堀割物語 その10
柳川堀割物語 その11

お楽しみに。





 


                               
森林環境教育映像祭

関さんの森を育む会 設立20周年・記念シンポジウム(2016-11-06)の報告

関美智子さん 挨拶

西山さん秩父さん
シンポジウム 空白の2ヶ月と謎の人物 緑地管理・緑地保全
山中市議・質問 合意書と覚書 道路図と角地 緑地保全法と野馬土手
↑ クリック

で跳ぶ 

シンポジウムのラスト


都市住宅地に残る、江戸時代の名主の家屋と屋敷林  「関さんの森」 

2008年10月 署名運動用のポスター(A2版)  国立市のデザイナー・吉田氏作


 
 私の映画で ご案内

 
第1部  200歳のケンポナシ 第2部  ケンポナシの移植
写真をクリック
 

短編映画「関さんの森ものがたり」が完成したのは2012年でした。

1部と2部の2本立てです。
1部は、静止画を紙芝居のように並べたもの、2部は動画が多くなっています。

第2部「ケンポナシの移植」は人気があって、75,000回以上見てもらっています。

  
いまやインターネット時代。映像が、瞬時に日本中いや世界中を廻ります。
台湾の造園家協会始め、海外からコメントが来ています。



ケンポナシを移植をした「富士植木」さんは、江戸文化の華が咲いた文化文政時代に創業。小林一茶、北斎、広重が活躍した頃です。

関家のケンポナシは200年前に植えられたとか、それは文化文政の時代ですから「富士植木」さんと「関家のケンポナシ」には因縁を感じます。

200年の老樹は、日本伝来の立て曳き工法でないと移植できません。幹の内部が腐って空洞になっているので吊り上げらたら壊れてしまうからです。

リーダーの山下得男さんは、工事が終わった時、とってもいい顔を見せました。このムービーのひとつの見せ場です。
それまでは根鉢が崩れないかピリピリしていたのでしょう。
心配で心配で眠れぬ夜もあったようです。

さて、
第1部「200歳のケンポナシ」ですが、あまりクリックされることなく、まだ2,000回ほど。

第1部は、そんなにつまらないのでしょうか。

私は第1部の方が、関さんの森の姿を、そして今回話題に上がった「道路問題」を分かり易く伝えていると思うのですが・・・。

この際コメントしたいことがあります。

森を迂回する新設松戸市道建設時、関さんは樹木を伐採なんてとんでもない。すべてを移植したいと希望しました。

すべて移植出来たわけではありませんが、費用は、関美智子さんと啓子さんが負担しました。市から出たのではありません。

関さんお二人の愛情に静かな感動を覚えませんか。

ゆったりとした語りの中に「関さんの森」の魅力に引き付けられているあなたがいるかも。

どうでしょうか。 まあ、だまされたと思って、1部と2部を、通しで見て下さい。

文字よりも映像で、関美智子・啓子さんの気持ちが伝わってくると思います。

映画「関さんの森ものがたり」へ


シンポジウム直前になって、
第2部の「ケンポナシの移植」を「休憩時間に上映したい」と言われまして、
実は「ウーン」と唸ってしまいました。
                          
「なんで休憩時間に?」「中途半端な映写じゃないか。うーん!」。
「まあそんもんかなあ。会には会の都合があるし、仕方ないか・・・」

当日は、ザワザワした休憩時間にかかわらず、チャんと見てくれている人がいて、
                                少しは救われました。

本当は、
  大画面、暗闇の中、2本立てで、見てもらいたかったなあ。

小学時代の夢が、60年後に実現した「ボクの映画」。

       この映画を 「森林環境教育映画祭」に応募したら「銀賞」になりました。


活動の記録 S
  森林環境教育映像祭 へ跳ぶ

案内に従って操作して下さい



History of My Life

 ←堅田クリック
私は琵琶湖西岸の堅田で生まれました。 
約550年前、応仁の乱で京を追われた蓮如さんが、湖族の自治都市・堅田へ。
ここから「浄土真宗」が日本中に広まりました。

戦後は時代劇映画の町。
長谷川一夫の「銭形平治」は、電柱に杉皮を貼ったりして、深夜まで撮影していました。

それを見ていた少年は、
         「ボクは、映画のカメラマンになる」
後に、新聞社のカメラマンに。
35年間、楽しい日々でした。
         が、一仕事終ると、なぜか根なし草の気持ちが残りました。
                         不思議です。本当です。

2000年定年退職、3年して、自作発表の場「大北寛web写真展」を立ち上げました。
ブログではありません。本式のホームページの作り方を勉強しましたので3年もかかりました。

これからは、「身辺に注意すべし」

   モチーフは、我が嗅覚のままに、先ず「手賀沼」。

手賀沼     魚が飛んだ日   1987-09-21


   これは琵琶湖の畔に生まれて水に親しんでいたので、
   当時日本一汚れきっていた湖水でも、感動がありました。
       
そして2008年に 「関さんの森」を始めました。
        「関さんの森」という名前に夢がありました。。
          関美智子さんに取材させてほしいと頼みましたら、
                    「育む会に入ったら情報も集まりますよ」。

私は行事に参加しますが、手伝いはしません。活動する人の姿と心の中をひたすら観察。

表現よりも伝達に徹する。これが私の「写真方法」です。




関さんの森は「子どもの森」。小学生は学校からよく来ました。

季節のくだもの、虫や花。
        子どもの興味津々の表情に、心動かされました。

当然撮りたいと思いました、が、引率の先生から、撮影は、必ず、断わられました。
                       
                     理由は「親から何と言われるか、怖い」。

だから、私のレポートには、学校行事としての森の活動は出てきません。

我が母校・滋賀県の堅田小学校では、
         最近、 学校のホームページにこんな告知が出るようになりました。

「学校行事など、 大津市の広報や報道機関を通じて広く情報発信していくことが、
地域や学校の行事等を受け継ぎ、発展させていくことの一助になればと考えます。
従いまして、
大津市の広報や報道機関行事等の取材に協力します。都合の悪い方は申し出て下さい」

教育界の対応は、今やこういう方向に変わってきています。

これは正しいと思います。



                                                

さて、これからがシンポジウム観察記


シンポジウムの何を取り上げてレポートするか。

私にとって印象に残ったことだけ。

  いいことだけにとらわれずに、良くないなーと思ったことも。

取り上げられなかったものは、 ドウナンダ?
                                ゴメン。




告知では朝日新聞だけがまともに扱ってくれたようです。
千葉県全域版に記事風に、そして丁寧な説明が付いて、これは効果があったと思います。

もうちょっと説明しますと、
普通なら催しもの案内的に、タイトルと日時くらいが掲載されて終わりですが、関さんの森の
価値を紹介し、プログラムまで書かれていて、それでいて短くまとまっていました。
                           いい記事でした。記者に感謝します。

参加者は中年層の男性が多く、それなりの面々が来ているように思えました。

関さんの森の今年の会員は70人弱。女性が多いようです。
       参加者数は161人ですですから、会員外は100人以上の方が来られたのでは?

どこから来てどう感じたのか、知りたいと思いました。
当日にアンケートはありませんでした。
残念でした。

そして付け加えると、
一般的にアンケートはその場で書いてもらう形が多いですが、
      数日後でいいので、ネットで送ってもらう方が、
      濃い意見、役に立つ意見が聞けるのではないか、と私はかねがね考えています。

 



シンポジウム「関美智子さんの挨拶

時間は5分。 内容は関家の歴史と森の価値。 
偶然に、前市長の川井氏が現われて、温かい話しぶりに場が和む。

7年前、2009年の関さんの挨拶収録はこちら。  音が出ないケースが多いようです。
 

 2009年2月28日 関さんの森 スライドとトーク

 
   
音が出なくても道路関係の記事写真があります

                        
       

「特別レポート」

          
ついに登場  「空白の2ヶ月」と謎の人物

   

発表者の意見
まず、最重要なことから。   
説明は長文です

景観市民ネット・大西信也氏の
「地域新聞・松戸よみうり」戸田記者が川井・松戸市長と関美智子さんを引き合わせ、泥沼状況の道路問題が解決に向けて一歩前進
したエピソード。


私は、「松戸よみうり」の戸田記者 を大いに評価したい。
読売新聞に折り込まれる地域コミュニティー・月刊新聞で、志は高く、松戸の最も難しい問題に取り組んだのだ。
  戸田照朗氏の鋭い嗅覚と機転が道路を曲げたと言える。



この2件の新聞報道の間が、 情報管制のとられた「空白の2ヶ月」と言います。

市との交渉に急転換が見られた、上に掲載されている12月3日の「川井市長の関家を訪問」から、2月5日の「新設市道に関する基本合意まで」に起こったことが「知らされなかった事実」の中身で、2年後に内情が公開されました。


当時私たちは、仲間内の了解事項として「周りが騒ぐと、まとまるものもまとまらなくなる」との気遣いがありまして、トップシークレット態勢でした。

その間、一般に知らされない形で市長らと交渉を続けた都市計画の専門家・中村攻千葉大学名誉教授がおられたこと。

そのキーパーソン・中村攻先生が「関さん・エコミュージアム・育む会・その他関係者の皆さん」宛に、読んでもらいたいと出された書簡などが、実はありました。

私がこの先生に初めて接したのは、2008年11月21日の「里山フォーラム」で、写真を撮りながら感じたことは、「超堅物」。

ところが、ここに再録した要請文や書簡、そして「空白の2ヶ月を明らかにする」を読み直して驚きました。

「超明解」、「超深遠」で、優しさ溢れた「励まし」です。

ここに改めて、一連の文を「空白の2ヶ月を明らかにする」として会報掲載に動かれた、関さんの森・木下紀喜氏 に感謝します。

                 

「関さんの森を育む会」会報からの抜粋を---中村攻さんの声---として紹介します。

  ( なお、原文は文字が詰まり気味でしたので、改行と空白を加え、
           重要語句を
青色にしました。黄色は激しい口論 =大北)
          

           

           
「強制収用から話し合いへ」

 ---中村攻さんの声---@  2008.12.01 

 


「関さんの森道路。直線案と、迂回する案と、
どちらが公共の福祉のためになるか。
答えは明瞭である」

中村攻(なかむら・おさむ)


2008年11月21日 「里山フォーラム」で 松戸市民劇場

         


関さんの森・道路問題 意見書・要請書から〜
                

                  要 請 文

松戸市長 川井敏久 殿
                 千葉大学名誉教授
                         中村 攻(都市計画学)


私は、「都市計画道路3・3・7号線」と「関さんの森」に係わる問題について、新聞紙上等で見る知識以上の見識は持ち合わせていませんでした。

しかし今年7月、市が土地収用法による用地取得の手続きに入ったという報道を目にし、些か時代錯誤の感を持ち、市内に居住する専門家として責任も感じて、貴殿にも出席をお願いした「都市の里山を考えるフォーラム」の実行委員長をつとめさせていただきました。

その過程で判明してきたことは、この問題は表面的には二百メートル前後の市道の建設ではありますが、都市建設や環境行政が世界的な規模で大きく変わろうとしている今日を象徴する問題を内包しているということであります。

こうした問題意識は既に多くの研究者も気づいており「関さんの森を育む会」の活動には全国から実に沢山の賛同者がいることに驚きました。恐らくこの取り組みはもっと大きな広がりを見せるものと思われます。松戸市が全国に誇れる21世紀型のまちづくりの一典型として成長していく可能性を十分に持つものです。

こうした認識を欠き、土地収用法を持ち出して事態を混乱させ、時代錯誤の醜態を多くの国民の前に曝け出すことは、行政としても市民としても避けなくてはなりません。

幸いにして地権者をはじめ関係者は道路建設には賛同してみえます。時代を先取りした道路を早期に建設することは可能です。事態の解決に向けて、貴殿の英断と強いリーダーシップを心から願うものです。

以下に、この問題に関する私の具体的所見を述べておきます。
ご参考にしてください。

1.現状の基本認識

都市計画施設に土地収用法の適用が許されるのは、この施設が基本的人権の財産権に一定の制約を加えても止む得ないだけの公共の福祉に資すると考えられる時であります。

都市計画道路はこの論拠から土地収用法が適応される場合があります(しかし、近年、同法の適用は極めて慎重になっている)。

松戸市の公表された資料「都市計画道路3・3・7号(幸谷・二ツ木区間)の早期開通を目指して」によると、本件はこれに当たるものとして進められているものと推察されます。

即ち、この道路は「交通時間の短縮」「交通混雑の緩和」「生活道路への通過交通の排除」「防災・緊急活動の強化」で公共の福祉に大きな貢献が期待され、地権者の財産権の制限が許されると考えているといえます。

しかし、都市計画道路と財産権についてのこのような通俗的な考えで本件を扱うのは、物事の正確な理解から逸脱しています。

何故ならば、地権者等は、道路建設に反対しているのではありません。道路建設の公共性を十分に認めたうえで、予定地が持つ自然・文化環境上の重要性をふまえて、これらと共存する迂回案への修正を求めているのであります。それも地権者の敷地内での修正という極めて穏当なものであります。

従って、ここで問われているのは、市の「直線案」と地権者等の「迂回案」の比較検討であります。どちらの案が公共の福祉にてらして優位性があるかであり、少なくとも市の提案する「直線案」に土地収用法を性急に適用する優位性が存在するかであります。

こうした事態の正確な認識を避けて、都市計画道路の財産権に対する優位性という通俗的な考えで、事態を乗り切ろうとする姿勢(例えば既述の市の資料)があるとすれば改める必要があります。


2.公共の福祉から見た「迂回案」の特徴

「迂回案」には「直線案」に比べて公共の福祉の視点から幾つかの優れた特徴が見られます。

@人間と自然・歴史環境との共生

洞爺湖サミットを持ち出すまでもなく、人類共通の今日的課題は、人間と環境の共生であります。人間が自らの欲望に基づいて環境を一方的に改変できるとする時代から、自らの欲望に制御を加えつつ環境と共生する時代に我々は生きている。

これは個人から企業、自治体から政府まで例外なく求められる最重要課題の1つであるといえます。

当該地には豊かな自然環境や歴史環境が、専ら地権者の努力によって周辺の開発から守られて極めて貴重な形で保全されています。「迂回案」は道路を敷地の外周部に迂回させることで、これらを出来るだけ保全しつつ道路位置を修正することで両者の共生を図っています。道路は人間の生活に利便性・経済性等をもたらすものであるが、それだけの論理で周辺環境を大きく改廃して良いものではありません。

時には利便性・経済性等にも一定の制御を加えつつ周辺環境との共生を図る必要があります。「迂回案」は当該地が持つ自然的・歴史的環境の固有の特徴を理解しつつ、人間生活が求める道路へも環境側に配慮を求める優れた中味を持っているのです。

市は「迂回案」について提案者に説明を求められましたが、その結果についてどの様な見解をお持ちになられたのか、返答される必要があると思います。それを待って正確な判断をしたいと思いますが、「迂回案」の安全性や機能性について質問されたとお聞きしますが、それを持って「迂回案」を葬り去るようなことは避けなくてはなりません。

道路は如何なる場合も直線の方が安全であるというものではありません。直線の方が
運転に気が緩んだりスピードを出しすぎたりして危険な場合も少なくありません。運転者の気がハンドルから離れないように、道路に適度なカーブを持たせるような工夫が市街地等では見られる時代です。

また、直線道路が作りやすい農村部の方が都市部よりも住民当たりの交通事故は多くなっています(勿論道路形状だけでははかれませんが、平成16年度で人口1万人当たりの交通事故死傷者数は松戸市等では71.0件なのに南房総市等では92.4件です)。

本件について、もし道路は直線の方が安全であると言われるのであれば説得あるデータ等で示されるべきであります。又機能性についても「迂回案」によって失われる時間はほんの数十秒でありましょう。

これだけの人間の欲望を満たすために、優れた自然環境や歴史環境に大きなダメージを与えることは避けて当然ではありませんか。


A用地の自然体験・環境学習としての質の高い場の確保

子ども達をはじめ市民の自然体験・環境学習の必要性は今後益々高まることが予想されます。

当該地では地権者の理解を得て、市民のボランティアによるこうした活動が旺盛に展開され「関さんの森エコミュージアム」も立ち上がっています。年間2000人余の子ども達をはじめ5000人を超える老若男女が訪れ体験学習を楽しんでいます。私が訪れた11月の晩秋にも80人余の来訪者があり、ボランティアのガイドから自然と歴史についての説明を受けながら去りゆく秋を満喫してみえました。

当該地の持つ特徴は、門・蔵・住居といった一連の建築物を中心にしながらその周辺に庭や畑や樹園地といった日常的に手の入る空間が広がりそれらを囲む形で大きな屋敷林が存在することであります。正に人間が自然とどの様に係わって生活したかを今日に残す里山の典型的な姿を残しているのであります。これらは一体のものとして保存活用してこそ大きな意味を持つものであります。

また今日では、庭の一部は環境学習の拠点空間として重要な役割を果たしていますし、休息空間としても楽しい空間を演出しています。

「直線案」がこれらの空間を分断したり消滅させているのに対して、「迂回案」は質の高い自然体験や環境学習の場を確保しているといえます。


B道路用地の無償提供

地権者は個人的な利益に拘って「直線案」に反対しているのではありません。出来るだけ自然な形で次世代の人々に残していきたいからであります。従って、もし「迂回案」に可能な限り配慮がなされるならば、道路用地を無償で提供しても良いと表明されています。

今日、全国的にも里山をはじめ自然保護がさけばれ、千葉県でも里山の保全に関する条例が制定され、多くの自治体でも里山等の環境保全が計画されてきています。私自身も自治体のこうした計画づくりに係わっています。こうした時、一番課題となるのは保存したい自然地の地権者の同意です。

地権者が経済的な理由等から土地の保全に同意されないのが一般的です。計画された自然地は何時の間にか売り払われ開発されて姿を消してしまうのも珍しくありません。自治体は計画は立てれども実現の保障なしというのがこの種の計画の一般的現状なのです。松戸市も例外ではないと思われます。

ところが、当該地は地権者がその保存に同意され希望すらされているのであります。又その希望が可能な限り尊重されるなら道路用地を無償で提供されることを表明されているのであります。

市は、市街地の中に質の高い自然・歴史環境を確保でき(仮)幸谷みどりの里構想の内実の充実と共に、用地費を無償で道路建設が出来る条件を与えられているのであります。松戸市も膨大な赤字財政であります。こうした申し出には積極的に耳を傾け、その受け入れに努めることは、多くの市民の望むところでもあります。譲り難いほどの正当性も見当たらない「直線案」にこだわり、こうした好条件を葬り去るならば、市民の賛意は決して得られるものではありません。


C住みよいまちづくりを進める市民を励まし育てていく

地権者は父親の代から、地域の子ども達の健全な育成をはじめ地域住民の住みよいまちづくりに多大な貢献をしてこられました。
40年程も前から敷地内の一部を広場に開放し、少年野球を始め地域の子ども達に貴重な遊び場を提供してきました(残念ながら「直線案」ではこの遊び場も姿を消すことになっています)。
13年程前には敷地内の屋敷林の部分1.1haを自然保護団体に寄付され、今日では「関さんの森」として地域住民をはじめ市民の貴重な自然体験の場になっています。

更に昨今では敷地内の庭・畑・果樹園部分も「関さんの森エコミュージアム」として市民をはじめ広く近隣市住民に自然と歴史の学習の場を提供されています。

今や、市街地に奇跡的に残された里山空間は、環境の時代の象徴的空間として、その重要性を遺憾なく発揮してきているのであります。加えて、こうしたことへ可能な配慮が払われるなら道路用地の無償提供をも提案されているのです。

まちづくりは人づくりであるといわれています。住みよいまちはそれを願い協働する人々の存在を不可欠の条件としているのです。従って、まちづくりを進める行政は、そうした住民を育て、その努力を励ましていく責任があります。このことは住みよいまちづくりの推進という公共の福祉の増進に大きな意義があるのです。

こうした視点に立つならば、地権者のこれまでの志を尊重し、支援していくことこそ市行政に求められています。地権者の求めている要求は極めて穏当なものであり、これに対して土地収用法を振りかざして対峙するのは、地権者のこれまでの地域社会に対する志と具体的努力を踏み躙る残虐な行為であり恥ずべきことであるといえましょう。


3.市の都市整備行政の責任

市の都市整備行政、とりわけ道路行政についても、考えなければならない問題が幾つか存在します。

@当該地の道路建設については、
計画当初から必要性を認めた上で、1976年には地下走行案(トンネル案)が地域から陳情され市議会でも全会一致で採択されました。

当該地は小高い台地に存在し、トンネル化によって環境との共生を図ろうとした意図は今日から見ても優れたものでありました。もしこの意図に基づいて道路建設が進められていたならば、今日の困難な状況は存在しませんでした。

ところが、議会の意志を誠実に実行すべき立場の行政は、これを履行せず、地表面での道路建設を進めてきたのであります。建設費等の行政側には理屈があったとしても、住民の要望と総合的判断に立つ議会の意思の実現に最大の努力をするのが行政のとるべき立場であったはずです。

こうした経過があるにもかかわらず、地表面で直線的に当該地を貫通する案に固執し、こうした経過を全て認めたうえで地表面での敷地内迂回を求める地権者等に対峙することは避けるのが行政としての最小限の良心というべきではないでしょうか。


A今回の土地収用法の決済申請の重要な動機として、
地元町会からの「早期開通」の要望、市議会での「早期開通」の決議があげられています(蛇足になりますが、@との対比で見るなら、何時も住民と議会の意志を最大限に尊重してほしいものです)。

ここで地元町会や議会が求めているのは、「早期開通」であります。「直線案」を求めているのではありません。「早期開通」を「直線案」と読み替える都市整備行政の立場は、「直線案」が土地収用法を発動して早期に強行できる場合にだけ成り立つものです。

しかし、地権者等の提案している「迂回案」には今日の社会情勢から見ても高い妥当性を持っています。地権者等の思い入れや期待の高さもあります。こうした事を勘案するならば、事態の推移はそれ程簡単ではないと思われます。

土地収用委員会に一つの山があり、強制収用まで進んでも司法の場でまた山があることが想定されます。従って、「直線案」が「早期開通」につながる保証はないのです。
加えて、事態の節々で「迂回案」との対比で都市整備行政の弱点が国民の前に曝け出されていくわけです。多くの市民はそのことを望まないと思います。

地権者等は話し合いを望んでいます。道路建設そのものにも十分な理解をもっています。専門家の協力を得て極めて穏当な案も提示しています。行政の側も土地収用法の申請を中止し、関係者が合意し歓迎できる案作りを早期に進めるべきです。それは可能です。そこには地権者等の同意があるからです。これこそが「早期開通」を求める地元町会や議会の意志に確実に答えられるものです。

環境の時代を先取りするような、人間と自然・歴史環境が共存するような道路をこの地から早期に作り出すことは可能です。
その上に、都市の中の貴重な里山を次世代に引き継ぐことすら展望出来るのです。
松戸のまちづくりの歴史に残る先駆的な取り組みに、貴殿の暖かい理解と、力強い英断を重ねてお願いします。

                            2008.12.01


「関さんの森を育む会」会報 第 29 号(2009 年 5 月 10 日)に掲載


 
                     
                                 

     
「空白の2ヶ月を明らかにする」についての記述

 ---中村攻さんの声---A     
           「関さんの森を育む会」会報   第 31 号 2011 年 2 月 1 日  に掲載


 

<序章-----会報編集部の注釈>

「松戸市側が強制収用路線から話し合いに転換して基本合意に至る、08年12月から09年2月初めの2ヶ月間の交渉経緯は、当事者とその仲介役にあった人など一部の人が知るのみでした」

「エコミュージアム、育む会としては、3万余名の署名と、マスコミにも大きく取り上げられたこの事案がどのようにして決着したのか、その解決に至る事実関係を明らかにすることは、問題解決のために協力して下さった多くの市民に対する責務であり、今後の類似の活動の参考とする意味からも必要なことであると判断しました」

「基本合意がなされてから2年近くが経ち、道路工事も着々と進んでいます。また、関さんの森の緑地保全のための協議会も、近く発足しようとしています。幸い、松戸市側の強制収用を話し合い路線に転換することに情熱を持って取り組まれ、自ら現場を調査して道路案を作成するなど、問題解決の中心として奔走されました中村攻千葉大学名誉教授から、その経緯が明らかとなる2009年1月30日付けの書簡の公表を快諾いただきましたので、ここにその骨子を掲載します」


   ――――*――――*――――*――――*――――*――――*――――*
<以下、中村先生の書簡>


関さん・エコミュージアム・育む会・その他関係者の皆さんへ

相変わらずお元気でご活躍のことでしょうか。私が行ってきたこの間の経過について、既にご存知の方もいられるかと思いますが、簡単にご報告しておく義務もあるかと思い、以下に認めておきます。

私が皆さんと初めてお会いしたのは、2008年11月21日の里山フォーラムでした。
余り活動内容も知らないまま実行委員長をお引き受けすることになり、皆さんの素晴らしい活動を勉強させていただきました。
フォーラムの後、市長と都市整備部長宛に、土地収用法の適応を避け話し合いによる解決を求める要望書(---中村攻さんの声---@)を提出しました。
これは皆さんの活動を強く支持し、市に再考を求めるものでした。私はこの段階で、私の役割は終わったと考えていました。

12月に入って、関さんは専門家による修正案なるものを提示されました。
私はこれを見て、そこにはスケールに大きな弱点がありこれでは活動を前進させることは困難ではないかと感じました。

そこでケンポナシと生垣の間を中心にメジャーを持って測りに行きました。
そして両者をそのままにして道路を建設するには無理があり、よしんばそのようにしたとしても、道路に接するように残されるケンポナシには極めて悪環境であり将来的にも健康に生存できる保証はないと考えました。

そして生垣から屋敷側の保存を優先しケンポナシは現地保存にこだわらず移植等を検討するという提案(A案−略最終案と同じ。編集部注:添付省略)を考え17日に関さんに説明にあがりました(私の記憶が正確なら、多分この日は関さんが修正案を発表された日であり、このまま突っ込んではいけないという強い危機感を抱いて夕方関さん宅を訪れたように記憶しています)。
ここで関さんからケンポナシへの強い思い入れをお聞きしました。そこでそれを残した場合には生垣側を2メートル程セットバックする案を構想しました(B案)。

そうした中12月も終わりに近く、関さん側の修正案に対して市の回答とも言うべき案が示されました。中味はほぼ直線に近いものでした。また、文化財等についても1箇所に纏めて保存するということも提案されました。このままでは両者に合意点を見つけることは出来ない。土地収用法の裁定申請の期限を1ヵ月後に控え、このままでは、収用委員会から更には法廷での争いになり、極めて厳しい状況になることを予測させるものでした。

そこで関さんに屋敷内の3つの蔵を開いていただき内部を見ながら夫々の当時の使われ方についてお話を聞きました。そしてこれらの蔵はその位置にあることに意味があり敷地内の空間構成を変えるべきでないという結論を導きました。こうして、修正案でもなく市案でもない、両者の問題点を挙げ合意点を探りつつこれまでの構想を纏めて第3者案として提案する事にしました。

正月の5日にはA案B案合わせて関さんに提示して説明し、関さんからA案を希望するということと共にそれを市側に提案し交渉するよう依頼を受けて翌日にA案を市側にも提出しました。
その内容は両者に厳しい譲歩を求めると共に、略要求の7〜8割がたを満たすものだと確信しています。
ここから事態は新しい展開を見せ、市長ともお会いして、その了解を得ることが出来ました。この間の経過と合意事項については「市道337号幸谷二ツ木区間の取り扱いメモ」〈添付資料〉に纏めてあります。
そこには道路の基本計画から土地収用法にいたる大切な問題のほぼすべてについて基本的合意がなされていることをご理解ください。

こうした経過を踏まえて1月25日に関さん側(関さん姉妹、弁護士等)と市側(市長・都市整備部長等)が関さん宅に会し、その席で私が「同メモ」の全文を読み上げ再確認しあったのであります。

そこで、関さん側の弁護士によって、合意事項の内容ではなく、彼等を通さなかったこと(関さんと直接話し合って進めた事)等について問題にされ、時間的制約もあってキッチリと手打ち式ということにまでは至りませんでした。
私は関さん本人と常時話し合い依頼もされて市とも話し合ってきた過程に問題はないと思っていただけに(今でもそう思っています)、予想もしなかった事態の展開に大変残念な思いがいたしました。


しかし、当然のこととして、ここから事態は大きく転回し、基本合意書の作成に向け事務レベルでの「同メモ」に基づく詰めの作業がスタートしたのであります。
そして、10日後の2月5日に調印式を迎えたのであります。

関さん・エコミュージアム・育む会の皆さん、彼等を励まし続けた多くの支持者の皆さんに尻叩かれて、そして関さんの森の素晴らしい里山に魅せられて、こうした事ができたことを感謝します。
(この文章は2009年1月30日の皆さん宛の書簡を、経過を中心に一部修正したものです)

           2010年12月25日

                       千葉大学名誉教授 中村 攻


――――*――――*――――*――――*――――*――――*――――*
                             <添付資料>
       市道337号幸谷二ツ木区間の取り扱いメモ

<経過>

・09年1月5日 「提案」について関さんに説明(内容について了承すると共にその実 現に向けて市と交渉してほしいと依頼)
・09年1月 6日 市長に「提案」を提出。都市整備本部長に内容を説明。
・09年1月16日 本部長より、市長が話し合いを希望していることを伝えられる。(日時は21日の11時30〜。市長室にて。)---快諾すると共に、本部長の同席を希望。
・09年1月21日 市長と会談(本部長同席)---提案のA案を基本とした暫定案で進めることを確認
・09年1月21日 関さん側に改めて確認し了承。



<提案の要旨>

@ 当該地区については、後背地の豊かな屋敷林、門、蔵、住居や庭、更には畑といった都市に残された貴重な里山をその空間構成を尊重した形で残しつつ 、それと共生する道路を地権者、市民、行政の協働で作り上げる。

A 提案の骨子は市がかつて提案した暫定案とし、これを基本により安全で楽しい道路づくりをめざす。

B 外周部の生垣の内側は基本的に残す。

C ケンポナシについては現地保存に拘らない。(移植等を今後検討)

D 今後の具体案の検討は双方が誠意を持って話し合い進めていく。



話し合いの中で、次の諸点が話題となり、相互に確認した。

・最終的な合意案が実現できるよう、議会の理解が得られるように努める。

・暫定案であることもあり、S氏の新たな協力は仰がないものとする。

・2月8日を期限とした土地収用法の裁定申請は行わない。

・最終的に合意案が確定した段階で次のことを行う。

(・地権者は道路用地の寄付を行う。
             ・市は土地収用法の裁定申請を取り下げる。)

         
             2009年1月25日       以上。



  「関さんの森を育む会」会報         第 31 号 2011 年 2 月 1 日  から引用


 

                                  
     
      『活動のこれまでと これから』

 ---中村攻さんの声--- B  2009.05.05 

長く困難な道程を経て、地権者と市との間で道路計画についての基本合意が成立しました。ここに至る過程で関さん親子が払われた強い意志力と忍耐、育む会・エコミュージアムの皆さんの思いと努力に対して、心から感謝と敬意を表します。基本骨子の合意に関わった者として、皆さんのここまでの活動への感想とこれからへの期待を述べておきます。
活動をここまで成長させ基本合意にまでこぎつけた原動力を3つ程挙げたいと思います。

@つは、2.1haの当該地の持つ空間(資源)としての質の高さであります。大都市の中に残された里山空間として―――住居や蔵、庭や畑、それらを取り囲む豊かな屋敷林をほぼ原型で残すこの空間の素晴らしさが多くの人々の心を引き付けたと思います。

Aつは、父親の代からご姉妹へと引き継がれた2代にわたる地権者の土地と地域社会に対する篤き思いであります。今日に至る過程には、想像を遥かに超える苦難の日々があったでしょう。でもその思いが多くの人々の心を打ちこの状況を切り開いてきたのは間違いありません。

Bつは、地権者を中核にした育む会やエコミュージアムの人々の精力的な活動であります。署名活動は瞬く間に全国に広がり、心ある注目が全国から注がれるようになりました。この3つの力はどれが欠けても今日の状況は切り開かれなかったと思います。これからの活動でも、時々こうした点に立ち返り、前進することが必要かもしれません。

さて、これまでは都市計画道路という魔物に対する防戦的な活動でした。

これからは里山空間を縦横に活用した環境学習・教育・体験の創造的な活動が中心です。人間と自然がどの様に共生してきたか、これからはどうするべきか、皆で考え新しい人間生活を作り出していく取り組みの空間を皆さんは手に入れたのです。
その為にこそ魔物とも闘ってきたのです。その手始めに、この空間が過ってどの様に使われていたのかを、関さんから教わることをお勧めします。
住居や蔵や庭や畑や屋敷林が、人間の生活にどんな役割を持ち、お互いにどんな関わりを持ちながらその位置に存在しているか。

   ―――空間を読むといってもいいでしょう。そのことを学習しつつ、空間を修復再生していく―――楽しい活動が待っています。

貴重な資源としての里山空間、それを開発から守り続けてきた関家の人々、それらを励まし続けた会員の皆さん、有難う。そしてこれからも宜しく。

                 2009.5.5   千葉大学名誉教授 中村 攻  



  「関さんの森を育む会」会報  第29号 (2009年5月10日)に掲載

                   


中村攻(なかむら・おさむ)

 

 

                 あ
 ---中村攻さんの声---A  で明らかになった「空白の2ヶ月」の背景

この期間、会員・支援者にランクが設けられました。

前にも述べたように、「周りが騒ぐと、まとまるものもまとまらなくなる」との気遣いがありまして、市との重要な交渉状況は、トップシークレット。

知らせてもらえる人のランクが設定されていて、 私(大北)はランク外。
       今、中心になって活動している人でも、「ランクは下だった」ということでした。
       その人は、迂回合意を教えてもらえず、調印式に立ち会えませんでした。

活動の主役は「忍者か影武者か」。私にはそんな風に見えました。

           正体は、世間で言う「有識者」・「関家代理人」です。

だから、私のような「ランク外・下級支援者」にとっては、完全に「蚊帳の外」なのです。

我々「蚊帳の外」の結末は「寝耳に水」

関西弁では、こう言います。

「わやですわ」



2月5日朝日新聞ちば首都圏版に、<衝撃的報道>。

                「関さんの森 道路迂回で合意」

   下々の気持ちは、「わやですわ」。
            「直前でいいからなー、何で知らせてくれなかったのよー」。
            「腹立つなあ。我々は一体何なんだよー」。

その日(5日)の午後基本合意文書の調印式がある、と書いてありました。


    ニュースの世界では、大事なのは「初動」。とにかく現場へ駆け付けること。


早めに関さんの家に伺うと、関さんお二人が出かけようとするところでした。
            
            ここで初めて、調印は市役所で行われると知りました。

同行させて下さいと言うと、「どうぞどうぞ」。

            この「どうぞどうぞ」が決め手でした。

           関さんは昔通りの関さん。 「ハハン」と分かりました。

     「誰かのせいで、この大事な時に、支援者に連絡が流れなかったのだ」




2009年2月5日 シークレット解禁日
  電車に乗ってどちらへ?
          「市長さんと迂回道路合意の調印です」
 大西信也氏 関さんお二人 中下裕子弁護士 (左から)
関さんはカゼを引いていた  松戸市役所で



「迂回道路・合意書」調印式

周囲の様子を報告します
取材記者と撮影カメラマンばかりで、
支援メンバーからは、たったひとり。

たしか そうでした。=大北

その7ヶ月後


2009年9月10日 「覚書」調印式


今回はたくさんの支援者が見守りました。
こうでなくては。

道路の線形・幅員がほぼ確定。
また、強制収用(土地収用法による道路用地の取得)は
完全に取りやめとなりました。

その時、呈示された道路図


2009年2月5日の「基本合意」に続き、
2009年9月10日に調印した「覚書」により 、
新設市道の線形や幅員が確定しました。

その後、道路用地の引き渡し方法と緑地保全を考慮した協働の道づくりを進めるための話し合いが続き、
2010年3月30日に、都市計画変更と協議会についての「覚書」を交わしました。


「覚書」

第3条 
  都市計画の変更は、概ね平成26年末を目標とする。
第4条 
  前3条に規定する事項及び新設市道の建設について検討するため、土地所有者及び関係者ならびに松戸市職員で構成する協議会を設置するものとする。





<迂回道路調印日 2009-02-05 の状況>

関美智子さんによく聞いてみると、

      「昨日は、合意文書の作成に市長さんが自ら陣頭指揮をとって下さった」。
        
松戸駅前で中下裕子弁護士さんと合流して、市役所へ向かいました。

       中下さんは昨夜ぎりぎりまで細部の対立点解消までがんばって下さったようで、
                       明るい表情でこんなことを言っていました。

「日本中で、こういう関係の活動の中で、初めてのケースになるのではないでしょうか」

  

<前にも述べましたが、調印前「空白の2ヶ月」の事情が明らかになるのは、2年後のこと>



     「空白の2ヶ月を明らかにする」 へ跳ぶ


              

「下級支援者」の気持ち

私は、みんなと一緒に、中下弁護士さんから

  「日本中で、こういう関係の活動の中で、初めてのケース」の説明を聞きたいなあ、
                         
                         と思いましたが、無理だったでしょうね。

今から考えてみると、中下弁護士さんは、我々とはあまり接点がなかったせいか、

       同じく関家代理人であった西山弁護士さんとは味わいが違っていた気がします。


                   


もう一人の弁護士・「西山明行弁護士」について

    私にとって「関さんの森の弁護士」といえば、「西山明行弁護士」です。

   市との交渉で 忘れられないセリフ 

   「話し合いは、左手で頭を殴りながら右手で握手という訳にはいかない」

そして
          
    関家代理人として体を張って市と対峙される姿は、カッコ良かったなあ。

    子供達に見せたかったなあ。「弁護士になる」と言う子が現われたかも。
             
    老兵ではなかったが、いつの間にか消え去られた。 愛されていたのに。




「もの言う眼」

  調印式での美智子さんの眼は、
   子どもに向ける時@、そして立入り調査で市の代表者と対峙した時A とも違っていました。



@ これが「エコミュージアム活動」  A 立入り調査は「私たちを殺すためですか 」


45年前決定の都市計画道路を変更させて、都市に里山を残そうとする
 「親子2代の執念」がついに実った。

「信念」を貫いた眼。 2009年2月5日


                
      「空白の2ヶ月」の内情でした。

      「空白の2ヶ月」--- このどんぴしゃの言葉。誰がつけたん?


その後、どうなったか。

       

         2009年03月08日、 道を曲げて通すための話し合いに、
       関さんの家にやってきた川井敏久市長(先頭の人物)。
       川井さんは何回も来ました。
       この人のこの粘りがなくては市の職員は動いてくれなかった。
       私(大北)はそう思います。


       

        川井さん(中央)は、関さんの森に関心を示していました。
        幸谷城跡発掘調査見学会で=2010年9月18日

      

キノシタ青年  ヨクヤル

発表者の意見
 シンポジウム 私が注目した意見 2番目は、

関さんの森・木下紀喜氏 の実際の活動から生まれた観察。

    「20年前と今も活動するメンバーに変わりがない」 と発言。
            
             そうだな、これからどうするのかなと、えらく納得してしまいました。
   
      「森を訪れた人が、
         またいつか森を訪れてみたくなるような、森の案内人になりたい」

      木下さんは、そういう人物なので、これからも期待しています。

彼は、森林所有者の「全国森林組合連合会」代表理事副会長を務め、
     その経験と実行力に並々ならぬものがあるので、もっと喋ってもらいたかったですね。

「空白の2ヶ月」は木下さんの造語。表現力抜群、勲章ものです。

   
                    

「ちょっと待った」

シンポジウムでは、重要な話題が抜けていたと思います。

実は、新設松戸市道は、内容的には「暫定道路」
            それが「都市計画道路」に格上げされたら、この事業は完了します。

  「都市計画の変更は、概ね平成26年度末を目標とする」覚書が交わされていますが、
                        その期日を過ぎてもうすぐ2年になります。

本当なら、シンポジウムは

「屋敷を迂回する道路が都市計画道路に変更され、関さんの森全体が緑地保全地区となって、
                           晴々と、未来への伝言を語り合う会」
となるはずでした。

「なぜそうはならなかったのか」。説明は、超短く、ムニャムニャと。

参加者は気がついてくれたかな?

「森を育む会」は花虫草好き趣味の会?
            たとえ趣味であっても、目指す心は、世の中を良くする会ですよね。

隠しちゃイカンぞ。やっぱりイカン。

                      
さて、
これからやってもらいたいのは、年に1回の全体総会です。2年に1回でもいい。

趣味の会なら今のままでいいのですが、
               緑を守る運動体なのですから、全会員に告知しての総会です。

お母さん方や若い人たちが、「関さんの森」に何を考えているのか、
                     ざっくばらんに聞いてみる必要はあると思います。



      

      2008年5月の年次総会   総会と呼ぶには寂しすぎます
          この様子は今も変わらないようです

                                

このレポート作りに一ヶ月かかりました

この記事、2016年の除夜の鐘で、一応完成しました。

                  

この記事、関さんの森の活動家に文句をつけているような流れになっています。
       
       誠にその通りという気分と、そうではない気分と両方あります。

本心はこうです。

「20周年といういい機会だから、今の心を洗い直して原点に立ち返って見ては」。



「この20年間に、道路問題、緑を守る問題の全てを経験した」関美智子さん。

彼女の記憶力には及びませんが、

自分なりに思い出し、写真を点検しながら、書き直しを続けました。

間違いは、必ずあるものです。ご指摘下さいますようお願いします。

ご指摘を よろしく  
 


私は「写真屋」

  さて、シンポジウム2日後に、私は、

 「20周年記念誌」編集者へ、自分の気持ちを伝えています。


「スライドでの使われ方を見ると、私の写真が可哀想だ」。

    ---発表者の言葉に合わせた「いいとこ取り」、言葉のカットにすぎない---

こういう扱われ方は、悲しいです。

それで

「20周年記念誌」へ、私の写真は提供しないことに決めました。



私は、写真でどこまで本当のことが伝えられるか挑戦しています。これをルポルタージュ・フォトと言います。

                             

私は、関さんの森の広報として写真を撮っているのではありません。個人の立場で撮っています。



ですから、

「私の写真で私のホームページ作る。皆さんの写真で皆さんの報告書を作る。
                         
                       ---- それがいいのではないか」。

                
                

重ねて言います。

ブログ「関さんの森エコミュージアム」

祭りとか、保育園児が来たとかはよく出るのですが、
                    道路問題など大事なことは殆ど出ません。

これはおかしいですよ。そんなもんでいいのかな。
               「緑地保全」と「協議会」のことも、知らされない。

と言うことは、広く世の中に伝わっていない。

この方面の話は、「大北寛web写真展」で、
                  私の眼(写真)と私の言葉で展開してきました。


クリック
「緑地管理協定」の意味 続いて

森と屋敷の「緑地保全」決定  関美智子さんに聞く


「関さんの森」の大まかな歴史と現状が分かります  どうぞお読み下さい


  迂回道路の合意書締結時(2009-02-05)、市長さんも、関さんも言っています。

「今まで、道づくりは行政の仕事であったが、
これからは、行政と市民と地権者が一緒になって道づくりをして」 と。
                  
そうです。そのために協議会を作ったのです。行政と市民と地権者は同格です。
                
                

「ああそれなのに」


ああそれなのに、それなのに。

           いまだに市にお願いしてやって頂く気持ちが、

               関さんの森側に見え隠れする。これは良くない。

市側には、やってやるという態度が見えますが、これは役人の習性です。

 その上、担当者が次々替って、

          文書化されたこと以外のニュアンスが引き継がれない。

 例えばこういう発言。

都市計画の変更が、期限を過ぎてもなされないので、
協議会で関さんの森側委員が迫った。
 
   「なぜか」。

松戸市の部長は、平然として言い放った。
 
  「都市計画の変更は、概ね平成26年度末を目標とする」とある。
  概ねだから・・・」。
 



  「概ね」は、「やらなくてよい」という言葉でないぞ。
 
  「アホか」 
そう叫びたかったが。私は傍聴者。発言は出来ない。

 関さんの森側には、頭に来て抗議する人が。強烈だった。当然だ。

      不思議なのは、そんな状況になっても物言わぬ森のメンバーがいた。

      私の若い頃は、「異議なし」、「異議なし」と、応援したものです。

      それとも
      言葉が出なくなるほど、心中怒りと悲しみで一杯だったのかな 。

それではイカン。
イカンぞイカン。市側の反応に、皆で怒りまくってこそ「関さんの森」の同志じゃ。


 私のメモより  500年前、浄土真宗・蓮如さんの教え

「黙っていて、ものをいわぬ者をお嫌いになった。発言しないのが悪い。
また、微かな小声でものをいうのはいけない、と蓮如上人はおっしゃった。                              (実悟日記)」


以来、市側は、なんやかんやと言いだして、都市計画変更がなされないまま。
                期限は過ぎて、もうすぐ2年になるのだ。

こういった不毛のディテールを、ブログ「関さんの森ミュージアム」で、
                     もっと世間に伝えて欲しかった。

                  

       
        


私はやりましたよ。

覚書の松戸市HP掲載忘れを曝露

このレポートに、森の会員さんからは、何の反応もなかった。


ぼけていたのは市役所の人だけじゃないよ。

森の誰も気がつかなかったのだから。

なんて書いたからかな?

 



     
            
  「オイオイあまり言いすぎるとイカンぞ。 仲間じゃないか」
                   
                      
  探しました。見つけました。


          立派な人はいます。素晴らしい報告もあります。





               

 毎年「関さんの森を育む会」会報が正月過ぎに出ています。
 これは会報ですから、全会員に冊子が送られます。

 内容は実に豊富で、森にかける熱い想いが詰まっています。
 道路問題とか緑地保全について報告があります。

  活動の決算報告まであります。

                 
  会報には、極秘書簡・メモまで開示されていて、
                  まさしく「歴史年鑑」



 

これは素晴らしい。




2016年、会報の原稿締め切りは、大晦日、除夜の鐘。
 
編集者は、正月返上、ひとり、籠って作る。
 
修行僧。

正月早々に会報37号が出た後、3月に「20周年記念誌」

160ページだそうで、これは大事業です。
            


「編集者殿、尊敬します」
 

 



情報は、一瞬に、世界をかけ廻る


さて、ちょっと一服。   
都市計画道路を曲げさせるのはすごいことです。
その情報を 日本中の人々が待っているのです。
      
今の時代、印刷物もいいが、まずネットです。


2009年後半に、最新情報の伝達手段として、ブログ「関さんの森エコミュージアム」が開設されました。

ところが、このブログは内容が軽い。

そこで提案します。

年一回の「関さんの森を育む会」会報を
        PDFに変換してブログに添付掲載すればいかがでしょうか。

2008年 2009年 2010年 2011年 そして2015年のPDF会報を貰いました。

パソコンで見ることが出来ます。

            これは重宝しています。


印刷物で会員中心に配布し、ネットで PDFを流せば日本中の活動家が見てくれます。

  




以上、後期高齢会員の遠吠えでした。

       
「遠吠え」って何だ。

 それはねえ、相手を罵る言葉の意味もありますが、そりゃ違う。

 私の場合、仲間への合図なんです。親愛の情の高まりなんです。


   ほんまかいな?  ほんまですとも。 



遺言ダヨ


ご意見を 待っています  
 

  
 

       
たくましい議員の姿
                   

  

              山中けいじ議員 

     松戸市議会 
平成28年12月 定例会で質問
               
  質問事項 関さんの森と都市計画道路 3・3・7号(幸谷〜二ツ木区間)
                      にまつわる諸課題について

       質問要項は   こちら  (51ページ 34番に掲載)


    
中継録画は   こちらから

平成28年12月定例会 12月13日 5番目 です

「山中けいじ」議員は「山中啓之」と表示

この先は、視聴説明に従って下さい。



山中けいじ 松戸市議会議員のホームページからも
中継録画を見ることが出来ます


クリック

山中啓之の議会質問とかけて 「Z旗揚げて」と説く 心は 「議員の命運この一戦にあり」






拝啓 山中けいじ様

迫力抜群。見事でした。

若さに溢れ、準備万端の質問は、聞いていてほれぼれする。

答える方も同じテンションでやってもらいたいとは、思うのですが。

そうは行かない。

「松戸の役人は肩すかしが上手い」。


                 

山中けいじ議員 関連
平成25年12月、松戸市議会定例会でも、
森の隣りに作られた小さな公園
について質問しています。


山中議員は「関さんの森を育む会」会員の気持ちと通じるところがあります。

どういう意味かというと、
協議会の関美智子・啓子さん始め森側委員達が共有している心と同じで、
                             ブレがないのです。

ところが市の幹部は、どんどん交代します。
これが良くない。
どうなるか?

市側は記録が頼り。
その、市側の残した協議会記録は、市側メンバーの若い人が書いているようです。
私が代理で出席した時は、若い人が名前を聞いてきたので、
ああこの人が書いているのだと分かりました。

若い職員は、関さんの森のことを十分理解しているとは限りません。
「この若いのは何も知らないなー」と感じたことは何回もあり、
別の人ですが、今何が問題なんでしょうかと聞いてきた人もいます。

市の幹部達は、過去の記録を信頼して協議会に臨みます。

が、エライさんも若い人も次々替わっているものですから、
文章に残らないニュアンスは伝わりません。

ズレがまたズレている内に、メンバーが替らない関さんの森側の委員と食い違いが
生まれてくるのです。

これが原因で、我々は何度も「大迷惑」を被りました。

             

今回でも、市議会において山中議員に対する市の部長の答弁は、

「合意書」と「覚書」を繰り返し、やっと答えているのが見え見え。

あれが答弁と言えるのかねー。

山中さんは3回目まで質問をし、不十分な回答に議席から抗議すると 、

議長は早口でこう言った。

「答弁にも自由があるんですから」

私はがっかり。「議長。何言ってんの?」

「自由じゃなくて、勝手と言い直したら」



それと、山中さん。

市長に、あんなに、気を使うことはないですよ。

議員は市長よりランク下ではありません。

市民から選ばれたのですから、同格です。


(もし。我孫子市の福嶋浩彦市長に質問していたら、あなたは感動の日々でしょう)



山中議員は、答弁の内容に不満の意を表し、

「明快な答弁」がないものだから、しつこく迫り、討論風になった。

今の松戸市には、それは無理だ。



私の知っている限りでは、我孫子市の福嶋浩彦(1995年〜2007年)市長だけ。

福嶋さんは議員の質問に丁寧に答えていました。

福嶋さんは、討論しながら回答していたのです。

ああ懐かしい。我孫子市の福嶋浩彦市長。



どうだろうか。

山中さんの議会質問をきっかけにして、協議会で、

互いに胸襟を開いて、初志に帰るのがいいのではないか。

山中さんが、協議会傍聴に来て下されば、リセット出来るのになあ。

 
迂回道路建設の「合意書」(平成21年2月5日)と
緑地保全と協議会についての「覚書 」(平成22年03月30日)

 「今まで、道づくりは行政の仕事であったが、
     これからは、行政と市民と地権者が一緒になって道づくりをする。
                         そのために 協議会を作る 」


                  




やっぱし、ブログ「関さんの森エコミュージアム」でも、

山中議員の松戸市議会活動を紹介して、

全国の人に、「道路問題まだ道半ば」を知ってもらう必要がありますね。

       
                 


関さんお二人は、山中さんの質問を、どんな気持ちで聞いていたでしょうか。

 「道半ば、いつまで続く、ぬかるみぞ」

            

              山中さんありがとうございました。2016-12-19






                                       

 
                  


西山弁護士と秩父専門監




  ああ西山明行弁護士

  2008年8月7日、関さんの屋敷土地収用調査大騒動の時、
                      西山弁護士の言った言葉が思い出されます。

   「子供達を集めて森で遊ばせながら、立ち入り調査の様子を見せたらどうだろうね」


  立入り調査前、市の幹部と対峙。セリフも姿もカッコ良かった。
 
「憲法29条 公共の福祉に反しない限り財産権は保証される。
 関家に伝える前に一般公示は順番が逆だ。  引き取りなさい」
 
市の幹部は、負けずににらみ返す。「我々にも信念があります」。
一幅の歌舞伎舞台のようでした。 秩父達也(右)氏も名優でした。

引きあげる「千両役者」 見送る顔が複雑だ

秩父達也・専門監

土地収用法に基づく立入調査 
 「門前のにらみ合い」                                 
 戦い1日目  2008年08月07日
「門を破って入ることはしない」                           
 戦い2日目  2008年08月08日
 

        

秩父達也さんのこと

2012年09月28日。迂回道路開通式の最中、懐かしい人に会いました。

ずーと気になっていた人でした。

4年前の強制測量での行動隊長格の人物で、強面の青年将校風。

あの時は憎たらしいくらい冷たい奴だ、この野郎と、たくさん写真を撮りました。

「千両役者級悪役」、目立ちましたからね。

後から思うに、立場の違いで仕方がないかも。

ひょっとしたら彼は人情厚く、仕事熱心な人かもしれない。
       
「私たちにも信念があるという目をしていた」と写真説明に書きました。



私   「あら、こんにちは。今どこにおられるのですか」

秩父さん「私のことを覚えてくれているのですか」

私   「良く覚えていますよ」

秩父さん「今度、関さんの森の道路の管理をやるのですよ」

あとで、エコミュージアムの代表・木下さんに話すと、

    「秩父さんは、われわれに本当に良くしてくれます」


秩父さん、あなたは 立派な「強者」(つわもの) でした。


 
元へ
帰る


 



道路図
新設松戸市道(迂回道路) と 都市計画道路(直線道路)

2011年6月10日  市から関さんの森関係者に示された道路図
関家・庭内部=2008年3月30日  テープの右側が18mの都市計画道路位置  右端は倉

関家・庭内部=2008年10月16日  テープの手前が18mの都市計画道路位置  
 開通2日前    道路の様子を見る協議会のメンバー  2012-09-26
新設松戸市道(迂回道路)開通=2012-09-28   (向こう--新松戸側 手前--国道6号側)
迂回道路と関さんの森    2012-09-28

「100年桜」の下で 第2回 みどりと生きるまちづくりフェスタ  2009年03月29日

「100年桜」の花びらが   2009年04月12日

         
  百年桜の由来  
         


関美智子さん 語る

「私の母は一人っ子で、祖母も一人っ子。
ですから祖母夫婦にとって娘が生まれた時は
うれしかったでしょうね。
生まれた日に桜の木を植えました。
それが熊野権現さんとなりのソメイヨシノです」

お母さんは「1904年8月4日」生まれ

百年桜は2016年で「112歳」です。

   


あの日 あの時

     角地の塀  「関さんの森」から世界が見える 2009年


             このヒモ 何?


  
       関さん屋敷内 熊野権現わきに張られたテープ

         これは「新設松戸市道」の境界線


関さん家屋の内外には、かつて、テープが張り巡らされていました。

   一体これは何でしょうか。 ここは日本の縮図が見られる現場。

 市長さんが来る。当然、市役所の人たちは来る。国会議員も来る。

 たまに、本当にたまに松戸市会議員が来る。
 いや、議員さんは滅多にいらっしゃらないと言った方が良いかも。
 だから市議会の討論がトンチンカンになるというか。
議員の発言には現場から考えているという裏付けがないものだから、
市のやり方をしつこく追求出来ないのだ、と私は思います。

 おっと、忘れちゃいけない自然や環境問題を研究する学者も来る。
  外国から世界的に“超有名”な学者が来てくれたこともあります。



張り巡らせてある“ヒモ”の根元をたどったら松戸の政治が分かる。
日本の政治も分かります。

生徒を連れて自然観察に来る先生方へ。

ちょっと勇気をだして、生きた教育をしてほしい。
ここから広く社会のことを考えるきっかけを子どもたちに与えて欲しい。

「都市住宅地の中に、江戸時代の大きめのお百姓さんの家屋、
  風情がそのままあることの意味は一体何」

先生方よ。子どもたちと討論して欲しいところは、そこ。

ここは徳川様の別荘・戸定邸よりも100年古いのですぞ。

昨年秋、訪れた川井松戸市長はこう言っています。


「関さんの屋敷林は数少ない松戸の原風景として・・・・・
道を曲げても残す価値がある」
         (松戸よみうり 2008年12月14日号)

 

    関さん屋敷内 熊野権現わきに張られたテープ



 

    

    
    苦悩する松戸市首脳陣 2009年8月28日

関さん屋敷脇の道路線形まもなく合意という時点で難問が。

考え込む山田都市整備本部長(右)と後ろは市の担当陣


市側の真摯な対応に 思わずシャッターを切ったのでした。             
            関さん屋敷内 熊野権現塚脇で



この道路線が、2016年の都市計画道路変更時に、

わだかまりとして残りました。

山中議員は、2016年の12月定例会で質問をしています。


「質問事項 関さんの森と都市計画道路 3・3・7号

(幸谷〜二ツ木区間)にまつわる諸課題について 」

山中議員の質問に跳ぶ(クリック)

            

 
              
                    







関美智子
さん挨拶
シークレット解禁日
「空白の2ヶ月」 西山さん秩父さん
山中市議・質問 シンポジウム
合意書と覚書
道路図と角地
 

ご意見を どうぞ  
 

「関さんの森を育む会 設立20周年記念 シンポジウム」関係はここまでです




 


関さんの森 112年桜 保全作業

富士植木さん作業日 2016年 9月24日  


この桜、松戸市で一番古い「ソメイヨシノ」ではないでしょうか。
こんな凄い桜の木が関さんの森にあるのです。

私は、かつて、関美智子さんからこんなことを聞きました。

「私の母は一人っ子で、祖母も一人っ子。ですから祖母夫婦にとって娘(※関美智子さんのお母さんのこと)が生まれた時はうれしかったでしょうね。生まれた日に桜の木を植えました。それが熊野権現さんとなりのソメイヨシノです」



お母さんの生年月日を確認したら

「1904年8月4日」

百年桜は「112歳」でした。





赤色の線は 今回保全のために張られたワイヤー

2016年夏、東日本から北日本にかけての広い範囲に大雨を降らせた台風7号で、太い枝が折れて落下。
富士植木の山下得男さんの診断によると、落下した枝以外はまだまだ元気。
それで、2本のワイヤーで残った太い枝を吊ることになった。







桜の幹 周りは3m90


かつての姿



市の道路案では倒される百年桜(106歳のソメイヨシノ)
の説明あり


ところで日本最古の「ソメイヨシノ」はどこに。


「青森県の弘前公園」。弘前市みどりの協会のホームページにはこんな説明が・・・

1882年(明治15年)旧藩士 菊池楯衛により植えられたソメイヨシノ1000本のうちの1本と思われる。

・・・とすると 推定樹齢134年。


また、東京・小石川植物園には、

1875年(明治8年)文部省教育博物館附属・小石川植物園となった時に、園丁の内山富次郎らが染井村から苗木を担いで運んで植えた、という記録がある。

もしも その時3年生の接ぎ木だとすると 2016年で141年となる。




 




昭和22年  新松戸地区のジオラマ

70年前の姿です 「関さんの森」はどこに  探してみよう





「幸谷」の上あたりが 関家になるのかな?













新松戸郷土資料館は、2013年3月で閉館。

このジオラマは 横須賀小学校へ

2016年8月




歳とると腹の立つことばかり   2015-08-19



久しぶりに関さんの家へ。

松戸市の方が、『緑地保全を考慮した恊働の道づくりを進めるため、平成21年2月5日に締結した「松戸都市計画道路3・3・7号横須賀紙敷線(幸谷地区)に関する基本合意書」に基づく新設市道の建設の覚書書』の進展情況の説明に来られるから、みんな集まれと連絡がありました。

写真はその時の様子です。

いつも通りの関さんの森の青空会議。全くそのとおりですが、よく見ると違うんですよ。
手前の聞く側は2008年の「非常事態宣言 土地収用手続き及び実行動開始」以来、殆どおなじメンバーですが、報告に来られた市の職員は(向こう側右の3人)どんどん変わます。
皆さん偉くなられて、そして定年。後は全く見向きもしない。

ところがこちらのメンバーは 、「関さんの森」活動に志願して参加している方が多いものですから、チョロコイ役人の考えはすぐに見透かす能力はあるのです。まあこれを前提に読んで下さい。

会合のごとに、市役所の皆さんは、「一生懸命にやってますよ」という顔はするのですが、この連中の根っこは世間知らず。いい加減にしてくれよ言いたくなるほど反応が鈍い。
今回も、市役所の方の報告に、怒りの声を振るわせて、「何を言うとるんじゃ」と反論したメンバーもいました。

重ねて言いますが、今回の報告は「都市計画の変更は、概ね平成26年度末を目標とする」覚書の進展報告です。

「概ね」と書いてあるばっかしに、そのうちやればいいと考えたのでしょうね、締め切りが過ぎても平然としている。
お陰様で、こちらとしては裏切られてばっかりだ。
関さんの妹さんも、 ガマンにガマンを重ねている地権者の心情を理路整然とまくし立てる。

                
今の松戸市は正直に言って、日本中に名を馳せた「すぐやる精神」の松戸市役所の勢いはどこにもないという状況だ。
                 
ここで注釈を付けると、「もっと知りたい 千葉県の歴史」という歴史新書/監修 小和田哲男(洋泉社刊)に「すぐやる市長・松本清」についてこんな紹介があります。

昭和44年に市長に就任した松本清は、就任演説で報酬を辞退する「タダ働き宣言」をしたり、市長直属の「すぐやる課」という斬新な部署を立ち上げたりするなど、破天荒なやり方で周囲を驚かせる。とくに「すぐやる課」は、お役所仕事のイメージを画期的な取り組みとして、海外からも注目を集めた。その職務は、名前の通り、市民の陳情をたらい回しにせず、すぐに行動を起こして処理することである。  昭和48年、在職中に逝去 。
                 
                 

今日の市役所員は、「やりますから」というそぶりが一応見られる。少しは変わってきたのかな、と思ったがそうじゃなかった。

一週間ほど前に、県の都市計画課の3人が視察に来て「県としても、都市計画の変更に向けて努力すると」言って帰ったそうな。

良かったねとは思ったけれど、よく考えるとやっぱりおかしい。
地方分権の時代と言いながら、千葉県内での中央集権じゃないか。
民のためにに立つ仕事をする」松戸市役所員のプライドはどこにあるんじゃ。


こんな感想を持ったのは、私だけじゃあるまい。

まあこちら側としても、我が仲間に、ええ加減な理由で参加しなかった人もいるので、強いことは言えません。

「すっかり夏休みしてました」-----?????? 。 何じゃこれ 。!!!!!



                    



追伸

「戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)」
              

このドキュメンタリー映画すごいよ。

自分たちの住むところを良くしたいと、国に楯突く知事や市長の、そして住民の抵抗記録。

但し、カメラを振り回しすぎで、観る方は船酔い状態になった。

ガンバレ、へたくそカメラマン。





2015年3月26日


関さんの森 バス停

3・3・7号線にバスが通りました 新松戸から八柱まで



この線は松戸市の文化ライン

新松戸駅から21世紀の森、博物館、森のホールそして図書館へ行けます




いまなお感動を呼ぶドキュメンタリー映画
     
「阿賀に生きる」を見に行く=2014-04-27



「阿賀に生きる」は1992年に作られたドキュメンタリー映画です。
それから20年後の2012年、ニュープリントが完成。

いまなお見るものに感動を与え続けるフイルム映画作品です。

2014年4月26日付けの朝日新聞「be」に紹介されまして、調べてみると、翌日の27日に新潟市内の岩室温泉で上映会があることが分かりました。

「こりゃ行かんといかん」。

なぜ、 「行かんといかん」と思ったのか。
私はいま松戸市にある知的障害者の施設「まつぼっくり」を取材しています。
これは、「関さんの森」を始め松戸の緑を守る活動中の鈴木護さんから声をかけられて通い始めたものです。

← クリックで跳ぶ


取材してみると、一枚写真では知的障害者の世界はどうしても伝わらない。それなら動画にしようと。

ようし、一年はかけてドキュメンタリー映画を作ろう・・・。

タイトル候補は「日々ほぼ好日」。

厳しいところはありますが、笑ってもらうところもいっぱいの・・・。

映画を作るのだから、名作は見に行かないかん。  即、行動だ。

そんな動機から「阿賀に生きる」が見たくなったのでした。




「阿賀に生きる」---映画ホームページへクリック


立って話し中の方は、撮影を担当した小林茂さん。
丁寧に話す方でした。今は主に福祉関係のドキュメンタリー映画の監督です。
「ぼくたちは生きているのだ」岩波ジュニア新書に、生きてきた道が詳しく述べられています。



上映後は近くの「福井旧庄屋佐藤家」で、いろり座談会。

●斎藤文夫(郷土研究家、写真家、福井旧庄屋佐藤家・囲炉裏の火焚きじいさん)
●大熊孝(新潟大学名誉教授、『阿賀に生きる』製作委員会代表)
●小林茂(映画監督、『阿賀に生きる』カメラマン)
●旗野秀人(『阿賀に生きる』製作発起人、冥土のみやげ企画、新潟水俣病安田患者の会事務局)
●村井勇(アトリエラボン、『阿賀に生きる』スチール)
●聞き手 桾沢厚子(岩室温泉KOKAJIYA2F「室礼」)




この旧庄屋佐藤家が壊されようとした時、斎藤文夫さん(郷土研究家、写真家、福井旧庄屋佐藤家・囲炉裏の火焚きじいさん)が仲間と 保存。
ですから斎藤さんは、特別に「囲炉裏の火焚きじいさん」と呼ばれています。右端、マイクの人

 




幸谷の「黒観音」2014年4月

12年に一度のご開帳



2014年4月17日 撮影

これは2度目の撮影です  こちらの方が実物に近い


関武夫さんの「自然と歴史をたどる散歩道---新松戸・北黄金周辺」には、こんな風に書かれています。
「この観音様のお開帳は、午(うま)年の4月18日と決まっている・・・」

観音堂のある「福昌寺」様に確認したところ、4月12日から18日 まで。

この観音様は、由来記によると、海中に黒く光る木があって・・・。
だから黒いのですね。
煙で黒くなったのではないのですね。

ところで、観音堂の正面の額は、関美智子さんのお母さんが、昭和7年に奉納されたものです。

関美智子さんの話では、お母様の「もじ」さんはたいへん信心深い方で、 そういうことから奉納されたのでした。
美智子さんはこの観音様は始めて拝んだということで、静かなお姿に感動したと言っていました。







昭和七年四月吉日 関もじ  と書かれています。






観音堂


このご開帳は12年に一度というもったいない巡り合わせにかかわらず、お参りに来る人は少ない。

知る人は少ないのではないか。新聞に載ればわんさかと人が来るのに。惜しい惜しい。私は2回拝みに行きました。







お役人の間抜けな話  2014-04-11


「関さんの森」の、緑地保全に関する覚書が、2年半もほったらかしにされた話を紹介したことがありました。

それほど間抜けではないのですが、役人さんのいい加減な仕事ぶりに、笑うに笑えないことを、というか腹の立つことを、最近、経験しました。

すべて業者任せにする市役所の方々は、十分な対応だと思っているでしょうが、「議会中継 ご利用にあたって と ライブ試聴の説明」に関しては落第です。しっかりせー。
担当は、議会事務局です。

あの厳しい「山中けいじ議員」だって、驚くと思いますよ。
あきれると言った方がいいかな。








「関さんの森冬の観察会」に121人も



今朝は6時前に起きた。

「関さんの森 エコミュージアム」のサイトを見た。

驚き!!121名参加  こりゃすごい!!

あの寒い冬空の下、よくもまあ皆さん。来た。来た。来た。


立派だったのは、情報をネットに上げるスピードだ。

これはまことに素晴らしい。

写真を撮って、報告書いた人と、ネットに上げた人と、二人の連係プレー。

これが、またまた素晴らしい。

褒める理由はこうだ。


「情報は、発信したところに集まってくる」

皆さんこの催しのために、あちこち手配をして広報活動に走り回ったのでしょう。

 

すごいよねー。「関さんの森」のみなさん。


詳しくは  こちら  関さんの森 エコミュージアム

 





新設公園です=撮影2014-04-13



やっさもっさ 大騒ぎした公園です

鉄棒とか遊具とか 必要なんですね バカみたい





市議会から=2013-12-10


山中けいじ議員の新設公園に関する質問

ネット中継で聞きました。

内容が濃く、歯切れのいい質問でした。

あっそうだったの、と初耳のことがありました。

それと、市議会というのは、質問と答弁が中心ですね。 討議はないのですね。

ちょっと昔になりますが、我孫子市議会を聞いていて、

福嶋浩彦市長が、議員の質問を一手に引き受けて、討論していましたね。

聞いていて、本当に面白かった。

松戸市の場合、市長の答弁はなかなかもらえないのですね。

市長の答えをもらって、ありがとうございましたなんて

お礼を言っている議員がいますね。

おかしいね。







10月24日、街づくり課の担当者による公園計画の現場説明があった。

その場で、埼玉県生態系保護協会(隣接地=旧こどもの森=所有団体)の事務局長が発言した。

「赤道(あかみち)問題の時にシラカシ一本を公園用地に移植したが、その時に松戸市は

この公園を緑地として残すと約束した。今回の公園計画は当時の約束を破るものである。

松戸市とは、関さんの森を特別緑地保全地区として守るために『協議会』を重ねてきた。

関さんの森の保全に関わるこの公園問題が前回の協議会ではなんの話もでなかった。

当時の責任者が今どうしているかわからないが、松戸市との約束は継続されている。

当時の話をきちんと調べてきてもらいたい。それから話しをしたい。

後は協議会の場で話し合いたい」







森のとなりに公園が=2013-10-22




緑色で薄く塗りつぶした部分は、「幸谷特別緑地保全地区」。

「熊之脇」文字のとなり・矢印先は、区画整理組合の土地です。

そこに公園が出来ます。




薄茶色の長方形部分が公園用地



アップにするとこうなります。

斜線の部分は崖で、公園は作れません。


一見、「これでもいいかな」。・・・この図面で、今年度内完成予定です。



現地で見聞してみると、古い大木を数本切らなくてはならない。

「ちょっと待った」と声が上がった。

その言い分は明快だ。

「みどりと暮らす豊かさを大切に。千年来のみどりの声に耳を傾け、

百年後のみどりを育てる『松戸みどりの市民憲章』に逆行する行為じゃないか」





この続きは、

「関さんの森エコミュージアム」(クリック)のサイトで読んで下さい。

私はこの動きを紹介するだけにしておきます。


「育む会」と「エコミュージアム」の皆さんには、こういう議論を、

会のサイトでもっともっと展開してもらいたいからだ。



2009年2月5日。忘れもしない川井敏久・松戸市長(当時)の言葉。

「迂回道路は市民と行政と地権者が協働で造る全国初の試みです」

その話し合いの場「関さんの森緑地および新設市道建設に関する協議会」は、

7回も開かれているのに、内容が会のサイトで報告されたことは、ない。

おかしい。

インターネットは全国の人たちに知ってもらための、

いや、一瞬にして世界中を駆け巡るツールなのに。

なぜ、そこで
「全国初の試み」の状況を報告しないのか。

今度こそ、公園建設と協議会の報告をして欲しい


ところで、市役所内の都合で協議会の会長は建設部長。

問題になっている公園や緑地保全関係は、街づくり部なんですよね。


協議会の開催はうまく行くかしら?

たらい回しで、うやむやに。

そんなら市長に直訴か、目安箱か・・・・。

何で市民が、役所の縦割り仕事の心配をせにゃならんのか。





手前は10数年前、移植により生き残った「シラカシ」です。

今回、このシラカシは切られずに残りますが、

周りの大木、数本は切られてしまいます。

さてどうなりますか。


区画整理事業の主要な工事は今年度で終わります。

ですから、事態は急を要します。



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「覚書」について 大事なことの おさらい

 レッド・カード




「合意書」と「覚書」



松戸市道(迂回道路)建設の合意書



取り交わし後 2年半 公にされなかった「覚書」




「緑地保全」と「協議会」についての覚書
(平成22年03月30日)

続きは 必読です




 

「覚書」については、笑うに笑えない経緯があるんですよ。

平成22(2010)年3月30日に「寄附を含め用地取得の契約及び覚書」

が締結され、道路用地は関さんから市に渡りました。

その時の「覚書」については市はすぐに公表しませんでした。

平成22年06月の松戸市定例会で、市川恵一議員が質問しています。

「これまで締結してきた合意書や覚書は(ホームページに)掲載されている
のに、なぜか。すぐに掲載すべきであると考えるが、いかがか」---要約

堀切泰雄都市整備本部長の答弁の要約。

「地権者、関係者、市職員とで構成する協議会を設置していく予定。
この協議会の発足に合わせて覚書の内容もホームページに掲載したいと考えている」

結局、ナシのつぶては2年半。

道路開通の前日、

平成24(2012)年09月27日になって松戸市ホームページに掲載。

実はそれにもバカバカしい事情がありまして、


2012-09-26 協議会 



道路開通2日前の協議会。私に代理出席依頼がありまして、

私はこんな発言を。

------ 「緑地保全の指定と新設道路を都市計画道路への変更」という大きな目的のある「覚書」と「協議会」のことを、市民に知らせることなく放っておいたのはどういうことだ。----

市責任者の答弁。

「覚書のことは知っています。確認させて頂いて・・・・」


言われなきゃ放っておきましょう。

悲しき役人根性が見事にばれました。

次の日に、市はあわててHPに載せました。



「覚書」が締結されたのが、平成22年03月20日。

市民に公表されたのは、2年半後の平成24年09月27日。



ドタバタ劇。

なかなかの名演技でしたが、

民間でこんなことやっていたら、

会社は確実に傾きます。



ぼけていたのは市役所の人だけじゃないよ。

森の関係者も気がつかなかったのだから。

両者あいこで痛み分け? 

アホな!




 




この「覚書」には、日本で初めての試み、

行政と市民と地権者による恊働での道づくりと緑地保全の指針

が書かれています。

これだけは、忘れちゃいかん。





akirekaeru

勉強不足にも ほどがある


オイオイ 担当者はプロだぜ「覚書」は当然知ってるさ そうだよな 反省します


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「もし、壊されそうになったらブルドーザーの前に立ちはだかる」

    青木更吉さん

青木更吉野馬土手緑地保全=2013-08-16



これから紹介する「南柏の野馬土手」は、市民が緑地保全を勝ち取った珍しいケースです。

流山市と柏市の境にある「南柏・松ヶ丘特別緑地保全地区」は、平成元年(1989)に指定されました。
これは、松戸市の緑地保全第1号(栗山地区)より 20年も前です。



開発という名で「野馬土手」が破壊されようとした時、市民がストップをかけたいきさつが、青木更吉さんの「野馬土手は泣いている」(崙書房出版)に紹介されています。

この運動を助けたのは流山市議会議員の「日下部信雄」さんと柏市議会議員の「青木紀夫」さんでした。

「2人の市会議員の力なくして、野馬土手は守れなかった」

--------と青木更吉さんは言いますが、どうやら、青木さんの執念も南柏の野馬土手を守る力となったようです。


これをきっかけに青木更吉さんは自転車をこいで牧を訪ね、12年後の2007年に、「房総の牧5部作」(崙書房刊)を完成します。




野馬土手が緑地保全法で守られる





市民運動で守られた 南柏の野馬土手






左が小土手(牧側)    中央が 堀   右が大土手(村側)




平成元(1989)年に指定された 緑地保全地区



南柏駅西口の野馬土手---青木更吉著 「野馬土手は泣いている」より

村へ野馬が出て農作物を荒らさないように小土手を築き、もう一つ大土手を築いた。間は堀になっている。

昭和60(1985)年、この野馬土手に危機があった。土手を崩して農産物の直売所を作る計画で、ブルトーザーが崩し始めた。「文化財を守れ,」という声が広がり、流山と柏の市役所へ陳情したことがあった。

私=青木更吉=は、日下部信雄さん(流山市議)たちと一緒に、柏の市役所に陳情しに行ったのを覚えている。

市民の声が高まり、何とかその計画を撤回させることが出来た。

この土手を含む林(流山市松ヶ丘、柏市南柏)が、平成元(1989)年、千葉県によって都市緑地保全地区に指定され、土手を崩す場合は県知事の許可が必要になった。


相原正義著「柏 その歴史・地理」(崙書房)には、このように書かれている。

この土手は昭和60年(1985 ) 7月にブルドーザーによって一部が破壊された。松ヶ丘自治会が中心となって保存運動が起こり、千葉県に働きかけ、県が私有地を買収することで保存され現在に至っている。





野馬土手のある緑地は 住宅地に隣接しています




野馬土手(のまどて)は泣いている

身近な歴史遺産を守ろう
  青木更吉


2003年09月28日、柏市のStudio Wuu で、青木更吉さんによる講演会が開かれました。

講演会のレポート(庭野すみれさん) こちら(クリック)

注:    高田台牧、上野牧、中野牧、下野牧、印西牧に分かれた5牧を合わせて「小金牧」と言います。





下は上の図の左を拡大したもので、関さんの森(名主・関家)の東に、「野馬奉行・綿貫氏宅」があることに、注目して下さい。



 
流山市教育委員会による
「野馬土手」解説

野馬土手
 野馬土手は、一般的に「野馬除土手」とも「野馬堀」ともいわれており、野馬が牧外に出て民家に侵入したり、田畑の作物を荒すのを防ぐために作られたもので、土手と堀の部分から成っております。
 土手の高さは約二メートルから三メートル位、堀はV字型に掘られ深さは二メートルないし三メートル、幅は上部で約三メートルほどあり、低い土手と高い土手の二重に作られたものが多く、低い土手は馬の脚を痛めないようになだらかになっています。
 野馬の育成や増殖は自然に任せていましたが、将軍家などの乗用馬は、牧の中に土手を二重に作り、この中に放ち、保護と秀馬の増殖に努めていました。これを御放馬囲いといい、この区切りの土手を、お囲い土手といっていました。下総地方牧開発の歴史は律令時代にさかのぼることが出来ます。
 延喜式(平安時代初期につくられた法典集)には下総、高津(現多古町周辺)、本島(不明)、長州(現茨城県猿島町周辺)、浮島(現墨田区周辺)、大結(現船橋市周辺)の各馬牛牧があげられています。
 時代も下って武家時代に入ってからは軍馬の牧養地、供給地として利用されました。
 江戸時代の慶長十九年(1614)幕府はこの地に小金牧佐倉牧を設けています。この頃から牧場の仕事も本格的になって来ています。これらの仕事をする人々は「牧士」、「牧士見習」などといわれており、野馬土手や捕込(とっこめ=馬を追い込むために作られた特別の場所)やその他、牧に関する様々な仕事をしていました。
 下総台地一帯の牧は、船橋方面から野田方面にかけて広がり、土手は谷に沿い林を横切り、人家を囲うようにして走り、それはまるで小型の万里の長城のようです。
 市内における野馬土手は、平方原新田、上新宿、十太夫、大畔、駒木、駒木台、初石、松ヶ丘、野々下、市野谷などにも見られます。
       
                     流山市教育委員会







江戸時代、このあたりは「小金牧」という名の幕府軍馬牧場でした



小金原 野馬と旅人そして富士



関さんの森がある幸谷地区は、「小金牧」の外側にあります。
関さんの屋敷を迂回する松戸市道建設時の埋蔵文化材調査で、江戸時代の馬が発掘されています。






これは今の馬(サラブレッド種)に比べると、かなり小型です。




鎌ヶ谷市貝柄山公園の野馬像





関さんの森のすぐそばにある福昌寺の幸谷観音堂には、野馬捕りの絵馬(献額)があります。


描かれた場所は、ここ(幸谷・福昌寺)から約6キロ北にある上野牧捕込(現柏市立第2小学校)だろうと思われる。

牧士や役人、それと勢子たち20人余りで、他は見物人と商人で、140人近い人たちが描かれている 。

店はヨシズの屋根を張ったような屋台と露店で、飴細工、団子屋のような店が並んでいる。そこは買い物客が多く、お祭りのような雰囲気である。

------青木更吉著「小金牧を歩く」より


 
 馬に乗った役人の背丈から見ると 当時の馬は小型であることが分かります



見物する人々の姿 面白いでしょ






「関家の蔵から小金牧関係の書き付けが出て来ないかなー」
 
 ------------------大北寛のつぶやきです


「関さんの森」緑地保全 へ





古文書の会のみなさん どうぞ見つけてください





 8月8日

松戸市ホームページで「お化け大会」か。

8月8日の松戸市のホームページを見ていて、驚きました。
「緑地管理協定」についての記事がすっかり消えていたのです。

うらめしやー。



7月10日に市役所の「みどりと花の課」の方が、「緑地管理協定」について関さんのところへ説明に見えました。

協議会が開かれたのが、8月2日。
そこで「緑地管理協定」について丁々発止。

その後松戸市のホームページから「緑地管理協定」についての記事が消えました。

「緑地保全」も消えかけています。




「緑地保全地区」指定を受けて関武夫さんの「志」を思う 君知るや 「育森会」五十年 



関さんの庭 今年はなぜか ひまわり 燃えて

=2013-08-02



燃えるはずだよ 第7回 役所と関さんと育む会などとの協議会  丁々発止 



私には 難しすぎて  レポート出来ません

「育む会」さん たまには報告しやしゃんせ

単なる趣味人の集まりなら報告の必要ないが オイオイオイ




そうだ この小振りのヒマワリは ここで遊ぶ こどもたちの顔






建設部長さん お疲れ様でした /報告終了







「緑地管理協定」とは何ぞや? =2013-07-10

樹林管理をすべて素人がすることは危険です---この話を追記しました

松戸市ホームページには、
『栗山地区の一部の樹林地について、所有者の管理負担を軽減し、緑地を良好な状態で保全していくために、所有者との間に「緑地管理協定」を結び、市で維持管理を行っています』
と書いてあります。

7月10日に市役所の「みどりと花の課」の方が関さんのところへ説明に見えました。
その時の話を紹介します。



「緑地管理協定」とは。
「所有者や市民による保全が困難な樹林地を残していく行くための制度」で、「斜面林や作業困難な場所」。もうちょっと詳しく言うと、「樹林地所有者や市民ボランティア活動は機材・技術・技能・安全面から難しい!」。そういう場所を、市が費用を負担して管理します。


---------「いくらかけているのか」と聞いたら、「昨年は年間300万円」という返事でした。

参考までに、「Wikipedia:ウィキペディア」で「都市緑地法」を引くとこう書いてありました。

この法に基づき、日本初として2009年9月24日松戸市は地権者である地主と「緑地管理協定」を結び、樹木が繁り利用に供することが難しい傾斜地0.8haを市が管理する土地とした。この協定は2009年10月1日から20年間有効で、地主は樹木の伐採をできないものとし保全される。地主は相続税の減免を受けられる。一方、市は年間約250万円の維持や管理の費用をかける。-----------




「所有者が自分で管理できる樹林地(平坦林・竹林)」は「所有者が自分で管理。ボランティアによる活動」で管理する。
ということは、「関さんの森は管理協定区域に該当しない」らしい。
台風なんかで、関さんの森近隣の住宅に枝などが引っかかって迷惑をかけても、ボランティアで作業しなさいということです。

この枝下ろしは、育む会の人達がはしごで高いところに登ってやっています。



枝下ろし作業はたいへん危険です。その姿を見て頂きます。


伸びた枝を切る育む会の木下紀喜さん。

この技術に、みんなは驚きと感謝と尊敬の心。2008年9月21日




こんなに高いのです。



「活動の記録-G」 の後ろの方で 詳しく紹介しています

さて、

「保全に関連して必要とされる施設」とは、土留めのことです。

「管理協定」は市役所で見せてくれます。

行こう行こう   ・・・と言っても行く人はいないだろうな。




これが 日本の現場 栗山 「緑地管理協定」の斜面林 です




森と屋敷の「緑地保全」決定

関美智子さんに聞く 2013-06-02   
                      (聞き手 大北 寛)




平成24(2012)年9月に「松戸市道(迂回道路)」が開通し、平成25(2013)年

3月15日に「幸谷特別緑地保全地区」の都市計画が決定しました。

この決定には、どんな意味があるのですか。



「特別緑地保全地区」指定を受けることは、緑を次代に引き継ぐ最良の方法です。


川井市長の時代、平成21(2009)年。

都市計画道路3・3・7号線に代わり、松戸市道(迂回道路)を造ることで、

私たち地権者(関美智子、啓子)と松戸市(川井敏久市長)が「基本合意書」に

調印しました。

これは、市民と行政と地権者が、緑地保全を考慮した協働の道づくりの始まりでした。

行政 (松戸市)は、松戸の原風景を残す道路を造ります。

私たち(関さん)には、緑を残す行動の大きな前進でした。




森入口の「幸谷特別緑地保全地区」告知板に書いてあるとおり、

ここでは「手を加えてはいけない」のです。

将来にわたって、ここの緑は「都市緑地法」で、

このままの姿で守られるということです。




緑が守られるのは、添付図のミドリ線の区域で、

埼玉県生態系保護協会の屋敷林(旧こどもの森)と私(関家)の屋敷の

都市計画道路3・3・7号線の東側です。

「緑地保全地区」は建物は含みません。ですから母屋と森のサロンは外れます。

但し母屋のそばにある「脇の倉」は住居ではないので、緑地保全地区に入ります。

昔の母屋 今の母屋(上)    脇の倉(下)




元に返って聞きますが、

1994年に父親(関武夫さん)が亡くなられて、

関さんはどのように緑地を守ろうと考えたのですか。




莫大な相続税ですからね。

松戸市とか自然団体に寄付すれば緑を残してもらえると思いましたが、

税法も複雑で驚きました。

バッタ(昆虫)がいたり鳥が来る緑地をそのまま残してくれるところはないか。

幸いにも屋敷林は埼玉県生態系保護協会に引き受けてもらうことが出来ました。

屋敷林を管理するために市民の中から「関さんの森を育む会」が生まれたのです。

その後、松戸市は平成10(1998)年に、

国の指令で都市緑地法に基づいた「松戸市緑の基本計画」をつくりましたが、

「特別緑地保全地区」については、なかなか手を付けませんでした。

「買い取り制度」があったからです。

所有者が市に買い取ってくれというと、市は買い取らなくてはならないのです。
お金がかかりますからね。

「私たちの望みは、ただひとつ、父親から引き継いだ緑を、いつまでも残すこと」

ですから「特別緑地保全地区に指定されること」は、

緑を次代に引き継ぐ最良の方法(決め手)なのです。







松戸市は、平成20(2008)年になって, 栗山地区の斜面林を

都市緑地法に基づく「特別緑地保全地区」に指定。

矢切地区は平成23(2011)年に。

幸谷地区は平成25(2013)年3月15日に指定しました。

関さんの気持ちは・・・。




覚書の通り、「特別緑地保全地区の指定は、平成24年度末を目標とする」という

重い約束を守って頂いたことで、市の方々には感謝しています。


 



迂回道路 向こう側は「梅林」


覚書に「生産緑地」という言葉がありますが。



それは「梅林」のことです。

都市の中に農地を残すためで、固定資産税も安くなります。


 



庭の様子 手前は会議などに使う机



「市民緑地」とは。



「市民緑地」の目的は、緑地を市民に公開することです。

「関さんの森緑地および新設市道建設に関する協議会」で、これから話し合います。



迂回道路は、いつ、「都市計画道路3・3・7号線」に書き換えられるのですか。



迂回道路を2年ほど使ってみて、問題がないと認められれば、

都市計画の変更がなされるでしょう。

おおむね平成26年度末が予定されています。2015年3月末です。

そうすると迂回道路が「都市計画道路3・3・7号線」になり、

「幸谷特別緑地保全地区」が広がると思います。





お父様(関武夫さん)の思い出を話して下さい。




父は地質学者でして、昭和5年に「高等師範」卒業後、

当時の地質学第一人者・東北大の矢部長克先生に学び、

朝鮮や満州そして東南アジアの資源開発に携わりまして、

戦後は南米チリの銅山の新開発に10年。


※:2010年、落盤事故で33人が69日目に救出されて、
世界的に知られたチリ・コピアポ鉱山の開発を、
最初に手がけたのは関武夫さんでした。

東京オリンピック以後、松戸市近辺の都市化に伴い、このままだと緑が消えて

しまうと心配して、地元に「育森会」を作り、

屋敷林を「こどもの森」として解放しました。

「今の子どもは自然がなくて可哀想だ。泥だらけになって遊べる場所を」

その父は1994年に亡くなりまして、私たち(美智子と啓子)が、

未来の子どもたちに緑を残す行動を続けています。

※:妹の啓子さんは、一橋大学名誉教授で社会学者。

  教育思想史 比較教育学 環境教育学が専門   
 



関武夫著「写真で見る 自然と歴史をたどる散歩道 新松戸・北小金周辺」
平成2年(1990年)4月1日発行



残したいのは公園化された緑ではない。

      昆虫や鳥の来る、ありのままの緑ですね。




ここには江戸時代の名主屋敷の空間---屋敷と屋敷林---があります。

建物の配置、全体の風景がそのまま残っています。

母屋は、1986年に、屋敷林の木で、200年使った萱葺きの家とほぼ同じ間取りで

建て直したのです。
写真に跳ぶ

この庭で遊んだ子どもたちが大きくなって、 

生活の中の緑を大切にする大人に育ってくれればそれでよいと思っています。

 



雑倉(左)   名主の門(中央)  新倉(右)
「都市計画道路3・3・7号線」 上にあります



関さんの森の周りに住んでいる人達は
           
              どう思っているのですか。


市は生態系の調査を行い、指定に当たっては周りの人達にアンケート調査を

した上で、緑地保全地区指定の決定をしたと聞きました。

概ね、賛成意見が多く、その上での決定です。

周りの方は新住民です。子どもたちがここで、もっと遊んでくれたら嬉しいです。

最近は放射能の関係からか、小学校の自然学習はなくなりましたが、

いつでも来て下さい。待っています。



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参考   是非とも読んで下さい


緑地保全法で守られた「野馬土手」

「南柏の野馬土手」は、市民が緑地保全を勝ち取った珍しいケースです。

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屋敷林のスナップ (2008年撮影)







 









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