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生闘学舎を訪ねました  その訳は・・・


お知らせ ここにありました砂原保育園の写真並びに記事、

そして関連する[YOUTUBE]は、削除しました。


その訳を感じて頂くために、まず、高須賀晋という人物を紹介します。

建築家・高須賀晋さんは20歳の時、交通事故で右腕を失い、

左手も指2本だけが残り、2本でパース(遠近図)を描いた。

孤高の建築家・高須賀晋さんの原点に触れようと三宅島へ。

枕木の家 写真をクリックで「生闘学舎」に跳ぶ


igoogle  「生闘学舎 」で検索可。「生闘学舎」と「大北」なら、確実です。


最初に、工学院大学軽井沢学寮の設計を、伊藤ていじ学長が高須賀さんに依頼したいきさつを紹介します。



以下は、伊藤ていじさんの文 (「住宅建築」2007年6月号 高須賀晋特集より引用)

実をいうと大学後援会が最初に選んだ建築家は高須賀さんではない。別の人で、ある組織に属している方である。大学は寄付をうけているのだから、寄付者の意向は尊重しなければならない、と私は考えていた。
(中略)

さる組織に属している設計者2人、大学教授2人が学長室に来られた。そして学寮の設計案を私は拝見することになった 。
一応説明を受けた。そこで私はいろいろ質問することになった。質問も他愛ない細部。

「バルコニーで椅子に腰掛け眺めるのはいいでしょうけれど、雨もりしませんか。何しろ学寮は一年の半分は使いませんからね」
「そのところは、考えなおしましょう」
「この庇は長く突き出していますね。2階の人は水平方向が見えないのではないでしょうか」
「そう、見えませんね。庇は短くすればいいですから直しましょう」

質疑はこういう風で、何か意見を言うと「そうしましょう」というのである。
「いや、この案の方がいいです」という主張が出てこない。
この設計者は、クライアントのご希望ならなんでもして差し上げますと言うのが哲学らしい。
こういうのは、私の設計者像にはない。

実をいうと私は、設計案を一見して「これは駄目だな」と感じていた。だから私の質問もくだらないものになってしまうのである。そこで私は当の設計者に言った。

「私がいろいろ質問申し上げたのは、私の意見に従って設計して下さいと思ったからではありません。
あなたもあなたなりの主張がおありでしょうから、それを知りたいと思ったから。
私が欲しいと思ったのは、この案が一番いいですと主張なさる案です」
(中略)

ということで私が推薦したのが、高須賀さんだったのである。

(工学院軽井沢学寮は、生闘学舎と同じ年、1980年に完工)



伊藤 ていじ 

建築史家。建築評論家。日本の民家研究を行った人物。工学院大学学長及び理事長。


砂原保育園の取材をやめた時、不思議と、

高須賀さんの「生闘学舎」に会いに行く気持ちが生まれました。



三宅島の「生闘学舎」(設計/高須賀晋)  撮影/2013-04-13



木漏れ日の中から、愛犬・ナナを連れた高須賀さんが・・・そんな雰囲気でした



高須賀晋さんを新聞で知ってから、もう32年になります。

いつか行って見たいと思っていた生闘学舎の前に、やっと立つことが出来ました。

高須賀さんの建築は、「シンプルと粋」と言われますが、初めて会う「生闘学舎」は、気高く踏ん張っていました。

「奥さんに電話しよう」
連れ合いが言いました。
「いま、生闘学舎の前にいます」
電話の向こうで、声を詰まらせて、泣いておられるようでした。

私は、こんな返事をもらいました。
「今日はお墓参りに行く日です」



建築家・鈴木久子さんは、上の写真を見て、こんな風に言って下さいました。

今回
どんな御用で三宅島に行かれたのでしょうか。
もしかしたら
私のように
心の奥深く生き続けている
生闘学舎の姿を
確かめに行かれたのでしょうか。


そうです。その通りです。



私が高須賀さんを初めて知ったのは、1981年6月1日、読売新聞の夕刊紙面でした。

「哲学のある家」-- 日本建築学会賞。枕木で作った「生闘学舎」の特集記事。

「20歳の時、交通事故で右腕を失い、左手も指2本だけが辛うじて残った。 < 2本でほとんど間にあう。人間の指10本というのは、予備も含めた数だったのですねえ > と気にしない」

「1000万円程度の住宅も・・・」---実はこれが決め手---

よし、この人だ。

当時私は40過ぎ、それまでは転勤を考えて賃貸アパート住まい、
そろそろ定住しようかなと考えていた矢先でした。

亀戸にあった高須賀さんの事務所に飛び込んだのです。

ジンベイでゲタばき。削げるものは全て削ぎ落とした端正な姿、 研ぎ澄まされた眼とちょっと頑固そうな風貌に引き込まれてしまいました。

「家を建てるのは一生に一度。今までの生き方を洗い直して、これからどんなように生きていくか考えてみてはどうか」

以来、私たち夫婦にとって、高須賀さんは「人生の師」。

ちょっと詳しく言いますと、難しいことに出くわすと、高須賀さんならどうするかと考えると、良い答えが見つかるのです。


高須賀さんは、2年前、2010年12月16日に亡くなられました。

けれども、私たちの心の中に生き続けておられます。






設計の途中で見せてもらったスケッチ(建築パースと言うんでしょうか)

「小劇場のような家だ」、と興奮したのを覚えています。




一階「酒盛りと洋菓子教室の場」
高須賀さん設計 持井工務店施工




高須賀さんの建築について、私なりに解説すると、
「この人には絶対この家がいいというもの作りました。さあ住みこなすのはあなたですよ」
そんな声が今でも聞こえてくる気がしています。

昔、聞いたことがあります。
「木造は何年持ちますか」
「まあ30年ですかね」

私たちの家は、今年で31年目。ベイマツの柱や梁は、所々アカが着いていい色になって来ました。
職人さんが汗を垂らして仕事された思い出が、あちこちに残っています。
木の色を生かす黒で統一された空間は、いつまでたっても飽きません。

私たちは、30年過ぎた今も、この家に惚れています。





「日本の集落・高須賀晋の建築と畑亮の写真展」で
2008年7月31日 東京・神田の南洋堂書店






三宅島 阿古



「生闘学舎」の意味

「生きることは闘うことであり学ぶことだ

その三つがセットになっていてこそ人間は自立できる」




使った枕木は5000本

高須賀さんは、建築の世界ではよく知られていますが、一般紙面で大きく紹介されたのは読売新聞(前出)ではないかと思います。

続いて「毎日グラフ」1981年12月13日号。筆者は大竹静市郎さん。建築学会賞についてこんな解説があります。

タイトル「孤高の建築家の人生哲学と夢」

「日本建築学会賞は一年に一回優れた建築設計を行った人に授けられる、この分野における最高の栄誉である。この対象になったのは都下三宅島に建てられた新左翼系運動家達の私塾である。

『生闘学舎』と名づけられたこの建物は、施主である運動家達が自ら枕木を組んで作ったものである。大屋根の合掌造りをほうふつとさせるユニークなデザインは、審査のために島を訪れた学会賞の委員を一目で圧倒する力強さを持っていた」




高須賀さん自身は、こんな風に言っています。  
「住宅建築」1980年8月号より。
建築学会賞を受けたのは1981年5月なので、その前の言葉です。

「枕木そのものは安価である。仕口を簡素化すればプロの年期が要らない。仕上げもない。その上、数十年の歳月に耐え風雨ばかりか糞尿も浴びたであろう枕木を再利用することは、グループの思想にふさわしいのではないか、そう思えて枕木の家を提案した。

1975年9月、測量を終えてから以後の5年間、グループ員の枕木との格闘の明け暮れがつづいた。枕木には犬釘や小石が噛みこみ、材そのものも重く、固く、ねじれている。それを積み上げて家にするまでにはグループ員の膨大な苦労、それを助ける技術者たちの懇篤な献身があった。

とりわけ島の棟梁の宮下秀雄さん、工具会社に勤めている竹田久光さんと杉渕美喜夫さんの損得をこえた協力がなければ、完工はおぼつかなかったろう。この人たちは技術的な面にとどまらず、精神的にもグループ員を支えてくれた。

私たちも5年間、島に通うことになったが、枕木と取り組んだことによる収穫は私たちにもあった。その最大のものはグループ員や関係者が思想的なものを離れても、人間的に忘れられない人びとになったことであり、そのことはいかほど感謝してもしたりない気持ちである」










高野雅夫さんについて


枕木の家は孤児として育ち学校教育を受けなかった高野雅夫さんら、全共闘の学生や反戦労働者だった人びとが、共に建設した建物である。

高野さんたちは、60年代後半から70年代前半にかけて係わってきた運動の敗者である。

第1の「夜間中学設置や全共闘での運動」も、第2の「私設夜間中学での運動」も、すべて敗北に終わった彼らにとって、その敗北の理由は、「すべて既存の制度や思想に対する反発に終わり、真に歴史を変える思想を獲得できなかったからだ」として、従来の運動がすべて個を主張し、自らが花を咲かせる <タネの思想> だったことを深く反省した。

野におりてひとのためのコヤシになりきるという <コヤシの思想> をかかげて、自分たちの「学校」を建設することを <敗者復活戦> として行ってきたのが他ならぬこの <枕木の家> =「生闘学舎」 なのである。

(住宅建築1980年8月号、編集部による解説)





なお、高野雅夫さんは、自著「夜間中学生 タカノマサオ」(解放出版社)に、松戸自主夜間中学校についてこんな記述があります。

-----俺たちがまだ三宅島で枕木6500本による自力更生の生闘学舎建設に苦闘していた1979年2月2日、千葉県松戸市に夜間中学を作る「松戸教育を考える会」が松戸市在住の夜間中学教師見城先生や相沢先生たちを中心に藤田恭平氏 (評論家、月刊「教育の森」初代編集長=注釈-大北 )を代表として発足した。-----




残念なことに、高野さん達がこの建物をどんな風に使ったか、私は著作の中に見つけられないでいます







建物を覗くとラクダの像が・・・。
使われることなく風雨に晒されている生闘学舎に、私は「さまよえる」という言葉をダブらせてしまいました。



生闘学舎の今はどうなっているのか

「建物の近くまで溶岩が流れてきたのだが、幸いにもそばで止まった」と書かれた報告を読んだことがあります。

三宅島生闘学舎をネットで調べてみると、電話番号が書いてありましたが、この電話は今は使われていませんとの返事。

三宅島観光協会では、「建物所有者は不明」。




結論から言うと、三宅島の人達は生闘学舎の価値を知らない。名前さえ知らない人が多い。

5年近く島外避難をしたからか。いやそうではなさそうです。

三宅島というと2000年の噴火で、島民全員が島外へ避難、帰島まで4年半かかったことは多くの人が知っていますが、これはガスによる被害が大でした。

生闘学舎と関係あるのは、1983年の噴火。阿古集落が溶岩で埋まり、そこが今は火山体験遊歩道となっていて、下には400棟もの家屋が埋まっています。かつては温泉もある大集落でした。

そういうこともあって、建築細部詳細図によると、生闘学舎の浴室は三宅島特有の赤褐色の温泉が蛇口から出ました。



広い溶岩原の向こうに大屋根の建物がぽつんと建っています。

この建物が「生闘学舎」です。

犬を連れて散歩していた3人の老婦人、元気そうなおばあさん達で、この集落の人でした。

私「あの建物は何ですか」

「・・・・」

私「建築学会賞を取った有名な建物なんですが・・・」

「・・・・・」

私「枕木の家ですが・・・」

ここでやっと話が通じました。

「ああ、せんとう学舎ね」

生闘学舎を「戦闘学舎」と思っているらしい。

この地では「生闘学舎」は、ほとんど通じない。

「マクラギの家」なら知っています。


村立図書館(阿古・郷土資料館内)には、生闘学舎の資料は一冊もありませんでした。

事務をやっている方、といっても年齢の行った方で、責任者らしい人に聞いて見ました。

私「生闘学舎は建築学会の最高賞を取ったのですが」

「そんなこと知りません。そんな名前も知りません。

                 個人の持ち物なんでしょ」

私はそこで、質問を止めました。

悲しくなりました。  これが現状です。 


    実は私は『生闘学舎建設記録』
(修羅書房, 82.01)が
三宅村の図書館に
ないかと思ったのですが、
残念ながら、ありませんでした。


上記の本は、私の住む千葉県内の図書館にはなく、東京都の場合、都立中央図書館に一冊ありました。

その内容は熱いのですが、厳しい現実が記されていました。

普通の住宅建築の場合、施主が建築家に依頼すると設計と管理は建築家、施工は工務店です。
生闘学舎の場合、建築家の高須賀晋さんが、枕木の家を提案し設計図を書いたのですが、施工は施主である運動家達です。
こんな建て方は、普通は考えられません。

例えば私の場合、高須賀さんに設計を依頼、施工は持井工務店。
私はお金を準備し、出来上がっていくのを見守る。
そんなやり方とは、全く違う違うことが書いてありました。

素人集団の悲しさ、遅遅として進まぬ作業、思い違いによる内部対立、設計者との関係に問題が起こる。

そんな中、混乱した彼らに手を差し伸べたのが宮下棟梁でした。

高須賀さんの言葉にあるように、
「島の棟梁の宮下秀雄さん、工具会社に勤めている竹田久光さんと杉渕美喜夫さんの損得をこえた協力がなければ、完工はおぼつかなかったろう。この人たちは技術的な面にとどまらず、精神的にもグループ員を支えてくれた」。

結局、残ったのはこの建設現場を遊び場にして育った子供2人と、その子達の「こやしとなる」事を選んだ親だけでした。



この壮大な活動記録は、定価1500円のものが、今は古本屋で6000円以上します。
私には高すぎて、買えませんでした。

最初に紹介したように、これは東京都立中央図書館にあります。






溶岩で埋もれた阿古集落を望む場所に、「生闘学舎」は生き証人のようにたたずんでいました。


この「火山体験遊歩道」の案内板に、この建物が、建築学会賞の「生闘学舎」である説明はありませんでした。

そりゃ、噴火とは関係ないけれど・・・。
そりゃその通りだけれど・・・。
こんなに目立つ建物である上に、ニッポンを代表するの文化財なのに。





1980年代、高須賀さんに学んだ工務店社長・持井貞城さんの話。

「先生と最初に伺ったのは多分1985年頃だと思います。
まだ体育館の鉄骨が飴のように曲がった残骸が残っていたように思います。
8年が経ち、生闘学舎から青ヒバ材の野地板の依頼があり、納めたような記憶があります。
その時は、先生と一緒の2回目の三宅島でした。
青ヒバの屋根がどうなっているか、気になります」



最初に紹介した建築家の鈴木久子さんは、阿古集落が現存した時と、噴火で一村が消えた後と、両方見ています。

かつては木々の中に建物があったので、今ほど目立たなかったと言っています。



この建物のある阿古地区の大部分は、1983年の噴火で、小中学校はじめ400棟の家屋が溶岩に埋没しました。



左中央の三角屋根が「生闘学舎」。右は太平洋。
ここは  「火山体験遊歩道」となっています。



学校の体育館


1983年、阿古集落を襲った溶岩流(茶色の部分)と生闘学舎の位置関係(赤丸)
模型右端は、阿古港。




「棟梁に学ぶ家」  (三宅島阿古)

三宅島の伝統の民家を、生闘学舎製作を指導した棟梁の宮下秀雄さんと共に実践しながら造られたもので、「日本建築学会三宅島研修所(棟梁に学ぶ家)」となり、今は高齢者の暮らしの支援を目的とする「みやけじま<風の家>」として使われています。
ボランティア団体の報告によると、建てられたのは1988年頃のようです。

ここまで確認したところで、私の三宅島滞在(2013年4月12日〜13日)は終わりました。




「棟梁に学ぶ家」を図解した「木造伝統工法・基本と実践」






写真の著作権は大北寛にあります。他で使わないで下さい。


  igoogle  「生闘学舎」と「大北」で検索してみて下さい。上位にランクされます。    


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関さんの庭の雪=2013-01-14



サイトの更新がしばらく出来ませんでした










2012年11月13日

黄信号風景



 
看板が「お祭りさわぎ」してる トータル・デザイン不在の悲しき光景

「緑を守る道路つくり」の精神性はどこに 緑を邪魔してるだけの看板





松戸市 新設市道開通=2012-09-28




11時03分 
道路中央の人が合図をして
右側車線 パトカー先導で開通

(向こう--新松戸側  手前--国道6号側)







11時05分 国道6号側からは白バイ先導で





関さんの森を回り込んだ形の新設市道



案内板 中年男のお腹のように丸く出っ張った道路線





本郷谷市長
「この道路事業がスタートしましたのは20年前。緑を守りながら開通させる多くの方の努力で、今日を迎えることが出来ました。
この道路は新松戸と東松戸を結び、将来は南の方につながって、北千葉道路から外環に・・・・」



お祝い演奏 小金南中の〈シング・シング・シング>
このお嬢さんの目が良かった。



杉ちゃん風 ワイルドだろ!



今日は迂回道路の開通式。

2日前は関さん屋敷内での協議会で役所の人達に抗議をし、私のホームページでさんざん言ったものですから、今日は静かにしておこうと思いつつ、開通式にやって来たのでした・・・。

「こんにちは」と声が。
誰かな。ああこの人は協議会で会ったなあ。
声をかけてくれるなんて、なかなかな人物だと思いながら、「こんにちは」と返しました。

視線を外す人もいます。
これは私のホームページの影響かな。気持ちは分かります。でも、私は考え方、行為を責めているのであって、その人の存在を全否定しているのではありません。

役所の人と市民は、少し緊張関係にあるのが本来の姿だと思います。



珍しい人に出会いました。ずーと気になっていた人でした。

4年前の強制測量での行動隊長格の人物で、強面の青年将校風。埼玉県セメントの町と同じ名前のTさん。

あの時は憎たらしいくらい冷たい奴だ、この野郎と、たくさん写真を撮りました。映画の悪役みたいに、目立ちましたからね。

後から思うに、立場の違いで仕方がないかも。

「私たちにも信念があるという目をしていた」と私は写真説明に書きました。(「関さんの森」活動の記録--DとEにあります、一番下から上へ見て下さい)

ひょっとしたら彼は人情厚く、仕事熱心な人かもしれないと、顔と名前はしっかり覚えています。


大北「アラこんにちは。今どこにおられるのですか」

Tさん「私のことを覚えてくれてるのですか」

大北「良く覚えていますよ」

Tさん「今度、関さんの森の道路の管理をやるのですよ」

あとで、エコミュージアムの代表・木下さんに話すと、「Tさんは、われわれに本当に良くしてくれます」

このTさんに再会し、幸いにも互いに良く覚えていたこと。
「昨日の敵でも、今日からは友」。 世の中、結局はそうかも。

これが最高の収穫でした。



それと同じくらい価値があったのは、テープカットの後に<シング・シング・シング>の指揮をした女の子。

部活の部長さんかもしれないけれど、あんなに楽しく指揮をする中学生を見たことがない。高校生にもいない。

「これがやりたいのだ。楽しくてしようがない」。 彼女の素直な気持ちが伝わってくるのです。

目がいい。この子は家庭環境もいいのだろうな。ちょっと「やんちゃ風」。「ワイルドだろー」という感じのところがとても可愛い。

このお嬢さんの目に、ハートを射ぬかれた観客は沢山いたに違いない。

東葛には全国で金賞の学校は沢山あるけれど、賞にはこだわらないらしい。

あんたたちの音、あなたたちの音楽で楽しんでいるのが見える。

だれか言ってた。

「人生なんて、そもそも、勝ち負けじゃないからよー」

譜面台はかたづけて。

おじいちゃん、おばあちゃんと<シング・シング・シング>、それが最高。

小金南中ブラバン。いいぞ。いいぞ。ありがとう。





クリックしてね

部員30人の市川南高ブラバン取材、2年目に。
「東日本学校吹奏楽大会」に推薦されました。

市川南高の<シング・シング・シング> YOU TUBE へ



悲しき口笛が流れて関武夫さんの遺志を思う 君知るや 「育森会」五十年 


道路開通2日前 緑地保全協議会 =2012-09-26 
 



道路の様子を見る協議会のメンバー



関美智子さんは向こう側の細い歩道を歩く人の安全を考えて、「狭いところは、自転車から降りて通るようにしてほしい」と市役所の人にお願いしました。動物の事故も、心配で心配で。この頃は顔色が冴えません。

「道づくり課の方々よ。開通したら、どうぞ丸一日様子を観察して、安全であるか確認して欲しい」と訴えていました。



関美智子さん宅の庭で開かれた協議会 向こうが市職員の方々


「忘れました」と言ったら立たされた ああ懐かしや 小学校の宿題


「出します。すみません」
2年半にわたる情報公開不履行を
市幹部は協議会の席上で認める

                平成24(2012)年09月26日


私は「2年半に渡る情報公開不履行」をどこでどう間違えたのか、「1年半に」と書いていました。----平成25(2013)年10月25日、間違いに気がつきました。


珍しいことがあるものです。
「関さんの森緑地および新設市道建設に関する協議会」に委員(代役)として出席してもらいたいと頼まれました。

これは平成22年03月30日、関さんと松戸市とで交わされた「土地売買契約及び物件補償契約締結と寄付受け入れ」時に交わされた覚書きに基づいて開かれている協議会です。

もうちょっと砕いて説明しますと、「道づくりは行政の仕事であったが、これから、行政と市民と地権者が一緒になって道づくりしましょう」と川井市長(=当時)の提案で作られた協議会です。

ところが協議会を作る約定書、平成22年03月30日に交わされた「覚書」が未だに松戸市のホームページに発表されていません。

平成22年06月の松戸市定例会で、市川恵一議員が質問しています。
「これまで締結してきた合意書や覚書は(ホームページに)掲載されているのに、なぜか。
すぐに掲載すべきであると考えるが、いかがか」---要約
続いて念入りにこんな発言「その覚書についてはこういう内容のでございます。これは当局のほうからいただいております」。

堀切泰雄都市整備本部長の答弁の要約。
「地権者、関係者、市職員とで構成する協議会を設置していく予定。
この協議会の発足に合わせて覚書の内容もホームページに掲載したいと考えている」

以上は、松戸市議会 会議録 より



とぼけ隠して2年半。平成22年03月30日に交わされた「覚書」の内容が市民に知らされることなく、平成24年09月28日に道路が開通する。

「緑地保全の指定」と「新設道路が目的とした機能を果たせるよう確認できた段階で、都市計画の変更をする」という大きな目的のある「覚書」と「協議会」のことを、市民に知らせることなく放っておいたのはどういうことだ。

例え代役といえど、委員の仕事が回ってきたので、私は怒りに声を震わせて発言しました。

答えはあっさりしたものでした。

「覚書のことは知っています。確認させて頂いて・・・・」


私の怒りはなかなか収まりませんでしたな。なぜか。

「確認させて頂いて・・・・」と答えて、出せばいいんでしょう、出せばで、一丁上がりとは。

---その了見はちょっとまずかろうよ。確信犯はバレバレでした。




「松戸市ホームページ」は「デジタルの広報」です。大事なんです。

もしも、上記の「緑地保全関する覚書」が、松戸市のホームページ上に掲載されたら、どうぞ声を出してお読み下さい 。

「日本で初めて、
行政と市民と地権者が一緒になっての道づくり」の指針が書かれています。


ここまでは、9月26日に記入。




出ました 出ました ついに出た



↑クリックして下さい

松戸市ホームページには、1年半遅れて
平成24年09月27日に掲載されました。

ところが、ちょっと変です。





変な理由はこうです。

この覚書は、本来は 

3.松戸都市計画道路3・3・7号横須賀紙敷線(幸谷区間)に係る新設市道用地取得の契約締結等について  

のところに掲載されるべきですが、何を間違えたのか、

4.事業の経過  の最後のところに掲載。

場所が違います。フェアーではありません。


以上の指摘に対しては、09月29日に対応して頂きました。

09月26日の協議会で、「覚書が掲載されないのはおかしい」と発言してよかったと思います。


私は思います。


「2年半にわたる情報公開不履行」は、市だけの責任ではない。

「協議会」を構成する松戸市職員、土地所有者、関係者----全てのメンバーに、何かが足らなかったからではないでしょうか。

※ 関係者とは(関さんの森を育む会)(関さんの森エコミュージアム)(埼玉県生態系保護協会)の代表者

2012年09月30日記す(大北 寛)








歳はとりたくないもんだ腹の立つこと多くなり 黙ってちびり一人酒











道路は9月28日に開通=9月1日撮影



「都市計画道路3・3・7号と松戸市道1地区1086号
開通に向けての思い 残された課題について」
9月の市議会 9月11日に深山能一議員(市民クラブ)が質問

本郷谷市長の答弁を録画で見て下さい(クリック)





参考情報 我が家の放射能測定=2012-09-07



ここでは 0.15マイクロシーベルト/時で 合格です



松戸市の「住宅空間線量測定」を受けました。

家の周りは1メートルの高さで、〈0.23マイクロシーベルト/時〉以下でした。基本的には合格です。
ただし、雨水のマスはどこの家でも数値は高く、マスの蓋上では 0.33、1メートルの高さで 0.17。 中の泥を計るととんでもない数値になるらしい。

こんなデータがあります。手賀沼の水は大丈夫でも湖底の泥はすごい。


2012年07月04日 千葉日報のWeb記事より

 県北西部の河川や湖沼の泥から高濃度の放射性セシウムが検出されたことを受け、手賀沼と印旛沼のモニタリング調査を実施している県は3日、手賀沼流域の測定結果を発表した。全19地点の底泥から1キログラム当たり540〜1万2200ベクレルの放射性セシウムが検出された。水質からは放射性物質は検出されなかった。

 県は「水で放射線が遮へいされており、生活圏への影響は極めて少ない」としている。


関さんの森の池は、水は問題ないらしい。底の泥は大丈夫なのかな。


この検査、申し込む人は少なく、松戸市8万軒のうち5千ほどだそうな。

惜しいねえ。みんな検査してもらったらいいのに。




ある疑問    2012年8月初旬

松戸市の「住宅の除染」が始まったので、(07/30開始) 私は自宅の放射線検査を申し込みました。
そこで、ふと思いました。

「関さんの森」の幸谷地区は除染実施対象地区になっています。大丈夫なのかな?

森の放射能については、ブログ「関さんの森エコミュージアム」の2011年12月27日 (火)に掲載されていました。

そのデータを見ると、樹木の部分は線量がかなり高いようですね。

小学生以下の子どもが多く利用する場所は市が除染すると約束していますが、関さんの屋敷林と屋敷は、まさしく子どものための場です。

私の住んでいる横須賀地区の横須賀小学校に関しての松戸市のレポートには、
「周辺の草地の一部で0.3μSv/hを超える箇所が見つかりましたので、立ち入り禁止にしました。除染工事の対象になっています」
とありました。

ところで、学校や公園の一部でおこなわれている掘り起こしてどこかへ持ち去る除染工事ではなくて、生態系保護を考えた除染方法はないものでしょうか。








久しぶりに 盛大な夕涼み会=2012-08-19




夕涼みの会は、本当は夜咲く花「カラスウリ」を見る会。

カラスウリのような白いリボンをつけた女性がいるでしょう。タヒチ娘のような・・・・、千葉大生です。
この日、千葉大生はもう一人。二人合わせて「糸屋の娘」。そのココロは目で殺す。

それはそうと、私が感心する女性がいます。彼女は横浜に住んでいて仕事をしています。その上、東京の大学院に通って環境について勉強中。

殆どの育む会会員は松戸に住んでいるのに、彼女は横浜から関さんの森の活動に参加。こういう人は宝物です。

写真に写っています。さてどの方でしょうか。





こちらは歴史研究グループ、古文書の会メンバー。何となく知的会話がはずみます。(これは私見です)

「松戸市博物館へ関家の史料190点余りが行っているのだが、それでも注目すべきものは残っているのか」と聞いてみたのですが、「あります」と答えたのは、新松戸にお住まいの、一橋大学大学院渡辺尚志教授(日本近世史・村落史専攻)。

「梅組」の高橋英吉先生。「古文書」の渡辺尚志先生。
「育む会・エコミュージアム」には、すごい指導者がいます。

そして忘れちゃ行けない「生き物」の山田純稔先生。この方は虫と花とヒトを同格に見ることの出来る科学者です。
「カラスウリを見て夕涼みの会」。これは山田先生の発案です。






関さんの庭で映画会=2012-08-05

スーパー・ハイビジョン=08-11

小金おやこでえいが会が関さんの庭で開かれました。タイトルは「田んぼ物語〜生命の小宇宙」。




私の作った「関さんの森ものがたり」も上映するというので見に行きました。

内心ちょっぴり心配でした。
5月の「森林環境教育映像祭」では、白飛びのする映写で映像に力がありませんでした。
それで、じつは、今夜もあまり期待はしませんでした。

まあどの程度出来るのか、その確認の気持ちが強かったのですが、ところがどうしてどうして、上映の技術は「一等賞」でした。

杉田さんの話では、「プロジェクターの能力でここまでが精一杯」。

いやいや大したものでした。ありがとうございました。


「この場所で、4倍くらいの大スクリーンで、フルハイビジョンの映写が出来るプロジェクターで、関さんや皆さんに見てもらえたらなあ」
そんな夢を描きながら、お菓子をポリポリと、見ていたのでした。



そういう時、秋葉原で最新の放送技術が見られることを知りました。
「スーパー・ハイビジョン」でオリンピックの上映があるという。

フル・ハイビジョンは1920×1080ピクセル、「スーパー・ハイビジョン」(SHV)は、16倍で、長辺が8K---すなわち8000ピクセルの超大解像力の画像です。

SVHカメラで撮影されたデータで、SHVプロジェクターで大スクリーンに投影された映像を最前席で見ましたが、銀写真でいう粒子が全く見えない事には驚きました。

まあ、技術はここまで進化したのか。こんな事を勉強するきっかけは「森林環境映像祭」のお陰と、何となく、皮肉っぽく、感謝の気持ちを持ったのでした。



ショート・ムービー「関さんの森ものがたり」が
森林環境教育映像祭銀賞だった
本当は 喜ぶべし そうは思えない訳が・・・



森林環境教育映像祭応募てんまつ記
森林環境教育映像祭はおかしいぞ

「森林環境教育映像祭」の情報は、「関さんの森エコミュージアム」の木下紀喜会長からでした。

木下さんは元全国森林組合連合会副会長。退役後の2008年に「関さんの森エコミュージアム」を立ち上げました。
「森を訪れた人が、 またいつか森を訪れてみたくなるような、森の案内人になりたい」

4月下旬、木下さんがこんなことを。「森林映像祭に応募しませんか.関さんの森のPRになるし・・・」
PRになるかどうかは分からないとしても、全国展開のコンテストで、YOUTUBEの作品がどんな風に評価してもらえるか。興味はありました。

調べてみると締め切りがあと1週間ほどしかない。YOUTUBEに流している「関さんの森ものがたり」をDVDにまとめると32分くらいになってしまいます。
そうすると応募規定の「30分以内」をオーバーします。
コンテストの規定は守らないと審査の土俵に上げてもらえません。
私は全日本写真連盟事務局でコンテスト関係を5年やりましたので、その厳しさは良く知っています。
この2分を縮めるのには苦労しました。結局2晩かかって29分56秒に作り直しました。

私に声をかけてくれた木下さんは、森林映像祭コンテスト関係者です。応募を誘ってからは、審査現場にはわざと立ち入りませんでした。そんな気の使いようでした。
当然ながら木下さんから特別な情報が流れてくることはありませんし、私から頼んだことはありません。

正直に言って自信はありました。
内心は、最優秀か、ボツ。どちらか。審査員次第。

5月18日夜11時、事務局から「銀」と連絡が来た時、「アッそうか。そういうこともある」という気持ちと「金はどんな映像なのか、見るのが楽しみ」でした。

入賞作品リストが発表されたのは5月22日で、金賞は「ポーラス竹炭の作り方・山本剛」らしいと分かりました。
ひょっとしたらYOUTUBEに流れているかも知れないと思い、調べましたらありました。徹底したハウツーものです。

ただ、この作品は30分をオーバーするようで、どうするのかなー、大変だろうなと気になりました。

←「ポーラス竹炭の作り方」YouTubeへ
この動画は、南伊豆たけ炭ひろば から著作権侵害の申し立てがあったため削除されました。------参考にして下さい   大北寛


23日昼の12時頃に作品内容と上映時間が発表されまして、金賞らしい作品の上演時間が33分と書かれていたのには驚きました。


らしいというのは、映像祭のホームページにはまだ金賞と表示されていません。金賞表示は上映会当日に会場で配られたプログラムで分かりました。


3分間の時間オーバーです。これは審査対象から外すというのが鉄則です。
事務局はこんなデータをよくまあ平気で書くもんだ。陸上競技でフライングした選手を見逃した審判員と同じじゃないか。
こういうのを「確信犯」と言いましたかね。
事務局にメールを打ちましたが返事はもらえませんでした。

事務局からの連絡は、私にコンテストのことを教えてくれた木下紀喜さんの電話でした。 彼にすれば迷惑な話で、いやな役回りです。
これは本当は事務局長の仕事です。
こういう対応をされるとコンテストに対する不信感はつのるものです。

結局、上映会(24日)開始の1時間前に事務局長・蒲沼満さんと会う事が出来ました。

大北
「厳正な審査を表明し、応募要項に、長編は30分以内と規定しているのに、3分オーバーはどういうことか」

蒲沼事務局長
「厳正な審査の意味に時間は含まれない。若干オーバーするのはかまわない」

大北
「それなら若干時間オーバーはかまわないと応募要項に書けばいいではないか。 時間オーバーを認めるのは、事務局の見解ですか」

蒲沼事務局長
「審査会の中で決めたことです」

いやいや驚きました。これが文化を論じる言葉かと思いました。「今の答えを私のホームページで公表してもいいか」と念を押しました。
事務局長は「かまいません」。

これで事務局長の言い分は分かりましたので、審査委員長に面会を申し込みましたら事務局長は納得してくれました。
以上のやりとりは録音していませんが、木下さんが同席してくれました。

ちょっとカッカしすぎたなあと反省し、審査委員長の堀内孝雄さんには気持ちを落ち着けて聞きました。


審査委員長は堀内孝雄(元全国森林インストラクター会会長 農博 )

委員は

足元裕子(文化遺産の森づくり有識者会議 理事・事務局長)

中野達夫(HP「木は万能選手」主宰、元信州大学教授 )

中原保久(全国森林組合連合会 林政担当部長 )

餅田治之(林業経済研究所所長、元筑波大学教授 )

吉村妙子(森林インストラクター、こげさわ調査クラブ世話人 )

蒲沼 満(自然・森林教育会代表 )



堀内孝雄 審査委員長に聞く

堀内孝雄さんは平成3(1991)年に始まった森林インストラクター制度の第1期生で、全国森林インストラクター会を作り、初代の会長を務めました。今は3代目になっています。

インタビューは2012年5月24日午後
東京大学 弥生講堂で

 

 

 

堀内孝雄
審査委員長

私は森林は長く見ていました。元々は農学部(昔の東京教育大)の林学出身で山が大好きでした。映像祭関係の方々と知り合いでして、ぜひにと言うことで映像祭の審査委員長に。2回目です。

大北 寛

私の姪がアメリカで映画を作っていまして、今回の銀賞の報告をし「審査員に映像の専門家はいないようだ」と言いましたら、「映像の専門家に評価されるより、むしろ、そのテーマの専門家に評価される方が価値があるんじゃないかな?   フィクションでもドキュメンタリーでも・・・」と言われました。

堀内委員長

ほう。いい言葉ですね。私は私なりに森の美しさは理解しています。

大北 ホームページに発表された上映会のプログラムに、「ポーラス竹炭の作り方」の上映時間は33分と書いてあったので、「選の対象から外れるのではないか」、と事務局長に聞きましたら、「審査委員長に相談したら、対象に入れましょうということになった」そうですが、それで間違いはないでしょうか。

堀内委員長 せっかく応募されたのですから見せてもらいましょう、と。確かにおっしゃるように時間で言えば3分オーバーですねー。

大北 私は全日本写真連盟事務局にいたことがありまして、審査は厳しくやるものですから、ふつうなら入り口でだめになってしまいます。

審査は審査委員長と審査員がやるものですから、審査委員長がいいと言えばそれで通過するものです。

(注 その場合理由を公開しなければなりません。森林映像祭の場合、情報公開していません。また事務局は審査委員会が正しく審査しているか監視する役割もあります。森林映像祭の場合、蒲沼事務局長は実行委員会と審査委員のメンバーになっているので、実際には一番重要な役割でしょう)

それでは、どうして応募規定で35分とかの設定をされなかったのでしょうか。

堀内委員長 はあ。それはです。ねえ。(困った表情)

大北 前回は長編は50分までの規定で、事務局長の話では52分のものもあったようです。

堀内委員長 ああそうですか。

大北 実は私は32分のものを2分短くするのに2日かかったのです。
審査は同じ条件の中で、大いに競い合うのが本来の姿です。

堀内委員長 ああ、そうですねー。

大北 プログラムに作品発表時間が33分と書いてありました。それはまずいですよ。

  

堀内委員長 うんまあ。

大北

もしそのことがばれるとこの審査の価値が下がりますから、応募者に頼んで30分にして出し直してもらう方法もあったのではないでしょうか。

(注 私が全日写蓮にいた時、そして今の全日写蓮でも、審査は大変厳しくやっており、公開審査もあります。
この公開は、審査員が審査されるという意味を持っています。
また、審査員の名前を明らかにするのは、結果の責任者という意味があります。
そして審査結果を発表する時、森林映像祭のように「厳正な審査の結果」とは書きません。「審査の結果・・・・」と書きます。)


堀内委員長 出てきたものを審査するという事で、おおむねという線でいいのかな、ということで。
私はそう考えました。

大北 ここに応募要項があるのですが、ここに「長編 30分以内」と書いてあります。

  

堀内委員長 ははあ。そうですね。

大北 たとえば高校の吹奏楽の全国コンテストでは演奏時間が超過した場合失格、審査の対象にされません。

(注 全国の吹奏楽の生徒さんが『普門館』をめざす「全日本吹奏楽コンクール」の規定はこうです。
第16条 演奏時間は課題曲と自由曲を含めて12分以内とする。
第17条 演奏時間が超過した場合は失格とし、審査の対象としない。)

堀内委員長 私自身もちょっとおかしいな、と言ったつもりですが。おおむねということで、いいのかなと思いました。
ふさわしいものならということで、土俵に上げて審査しました。

大北 私は金賞の内容を「YOUTUBE」で見ました。竹炭の作り方です。これは価値あるテーマなんでしょうね。

堀内委員長

この竹の問題は重要なことで、何とか手入れしないとと考えていまして、いいテーマでした。森林と林業で大きな課題なのです。

大北 これからこの竹炭のようなテーマが出てくることを期待しているのですね。
大らかに話して下さいましてありがとうございました。

 
以上のやりとりを録音し、ホームページに掲載することは了解していただいています。



もうちょっと話を続けます。その前に、審査委員の他に次の方々が実行委員として名前を連ねておられます。そうそうたるメンバーです。

 

第2回 森林環境教育映像祭の実行委員会

委員長
宮林茂幸 東京農業大学教授

委員
伊藤威彦(財)日本木材総合情報センター 理事長
今井通子 登山家、医師
岩田茂樹 全国森林組合連合会 常務理事
茂田和彦(公社)大日本山林会 常務理事
清水国明 作家、タレント、NPO法人 河口湖自然楽校校長
永田 信 東京大学教授
萩原 宏(一財)日本森林林業振興会 副会長
蒲沼 満 自然・森林教育会代表 






「日本の自然写真コンテスト」
(クリックで跳ぶ)
についてお話しします。

今から30年前
この立ち上げに関わった私の経験談です。


「日本の自然写真コンテスト」の開催は、朝日新聞社が1978年に「森林文化協会」を設立し、1983年に「21世紀に残したい日本の自然100選」を選んだことに始まります。
この趣旨により第1回写真コンテストを、全日本写真連盟が開催しました。(全日写蓮は1926年=大正15年に創設、朝日新聞社が後援する写真愛好家の全国的な組織 )

私は全日写蓮事務局員として立ち上げに参加しました。
約2万人の全日写蓮会員に呼びかけ、各県毎に「日本の自然100選」を舞台にして撮影会や講習会を開き、作品を募りました。
結果は新聞見開きで大々的に発表し、写真展を全国に展開しました。

忘れられないことは、入賞作品の写真集作りでした。
写真集作りを得意とするアサヒカメラ編集部員に相談し、言われるとおりにしました。 「応募作品にはプロ級から、写真を始めた人まで様々だ。程度が違う作品を如何に見栄え良く印刷するか。それには高級な紙に最高の印刷をすることです」

このコンテストは第6回からは国立・国定公園も含めたあらゆる日本の自然へと対象を拡げ、 29回目になる今年は 3854点から97点が入賞しています。
全日写蓮のホームページで作品を見て下さい。レベルの高さが分かります。


発表会当日の、関係者の言葉。「素人ですから」の連発に、「プロ意識の欠如」とあえて言います。

映像の意味を、深く考えよ。あの程度の映像祭なら、罪だ。
映像に夢を抱く一人の応募者の心情は・・・ ああ、無残。

                          2012-07-24 記す




「森林環境教育映像祭」のホームページへ

この映像祭第3回から

「森の映像祭」に改名






「関さんの森 20周年シンポジウム」へ





新メニュー東葛図師



だまされたと思って見て下さい 面白いから   私のスカイツリー(クリック)




てっぺんに葉が生えた−2012-05-04



ケンポナシのてっぺんに葉っぱが出ました
これは根っこからの水が上まで行ったということ

良かった 良かった



これが「百年桜の園」です=2011-04-15


くりっく 動画が始まります

前日の雨で  百年桜の花びらがびっしりと




関さんの森 短編映画に

森林環境教育映像祭で銀賞を受賞しました

上段のマークをクリックしても入れます

YOUTUBE

お知らせ 改訂版を出しました
全部実話 まじめなドキュメンタリーです

ケンポナシは「梨」の仲間ではありません.食べると梨のような味がします。それでこんな名が付いています。英語では「干しぶどう」の木と呼ばれています。

 
 タイトルをクリック


「関さんの森 YOUTUBE」が出来ました。上の画面をクリック。

本当は ショート・ムービー が適当なのでしょうが、私は「短編映画」という言葉が好きでしてね

ダウンロードされるデータは 最高は1920PX×1080PXのハイビジョンデータから低解像度まで5種類あります。
お使いのネットの状態に応じて使い分けて下さい。




YOUTUBE の検索で SEKIFOREST を入れると 
このケンポナシの移植がTOPに出ます

この2語で地球のどこからでも 見ることが出来る
これは驚きです

日本の場合ですと
関さんの森ものがたり でtopに出てきます



関さんの森を迂回する新設松戸市道建設で、関さんは樹木伐採なんてとんでもない。すべてを移植したいと希望しました。

それで移植の費用は、すべて、関美智子さんと啓子さんが負担しました。市から出たのではありません。

移植のプランニングは「日本緑化センター」に依頼。工事は緑化センターの推薦する「(株)富士植木」が担当。

この「(株)富士植木」さんは、江戸文化の華が咲いた文化文政時代から名の知られた植木屋さんでして、それは小林一茶、北斎、広重が活躍した頃で、東葛では「送り大師」が始まった時代です。
ケンポナシは200年前に植えられたとか、それはまさしく文化文政の時代ですから「富士植木」さんと「ケンポナシ」は深い因縁を感じます。

移植の方法について。

子どもの広場などの元気な木は、クレーンで吊り上げて運ぶことが出来ましたが、老木のケンポナシだけは立て曳き工法でないと移植できません。幹の内部が腐って空洞になっているから吊り上げらたら壊れてしまうからです。

皆さんもお分かりのように、「富士植木」さんの仕事ぶりは、見ていて気持ちがいいですね。関さんの森の移植関係では2年前から、確か12人でしたか、同じメンバーでやっておられます。
リーダーの山下得男さんは、立て曳き工事が終わった時、とってもいい顔を見せました。このムービーの一つの見せ場です。
それまでは根鉢が崩れないかピリピリしていたのでしょう。
心配で心配で眠れぬ夜もあったようです



なお、「緑地保全に関する覚書」が、平成22年3月20日に,土地売買契約及び物件補償契約締結、寄付受け入れの時に交わされました。

今までですと「緑地保全に関する覚書 」はどんな内容なのか発表されるのですが、6月の松戸市議会で「緑地保全の協議会が出来たら発表する」という答弁があった切りで、今になっても松戸市のホームページには掲載されませんね。
ムニャムニャでそのうち知らん顔、のいい例です。多分、土地を引き渡すにつき、これだけは守りなさいよという関さんのひと言があったのでしょうが、大事なことが伝えられずウヤムヤになるではありませんか。


こんなことは日本の歴史上なんぼでもあります。
我がふるさと、滋賀県の堅田では、16世紀のこんな記録が残っています。

「御一家様へ,芥子粒(けしつぶ)を千に割りて、その一つなりとも、心を許すな。手綱をゆるめるな」
蓮如上人の6男・蓮淳に迫害を受けて餓死した明宗のことば---本福寺跡書より

この御一家様とは浄土真宗の門主の家系一族のことです。 
それを御役人様と置き換えてみて下さい。

この「明宗」さんのことを、4月下旬に私のサイトでやります。



では、まだ発表されないウヤムヤはどうなったかというと、覚書に基づいて「緑地保全の協議会」が作られました。
はじめの頃は傍聴できるとか、話題になったのですが、どうなったのやろね?

関さん、市、そして関さんの森を育む会関係者などがメンバーで、今は道路の話が中心のようです。

この件は多分以上の経過で間違いはないと思います。


 

 






ところで英文タイトル「Seki-san's Forest」を付けました。

何故かと言いますと、いまやネットの時代。この「YOUTUBE」を全地球上の人々に見てもらいたい。
もしどこか地球の裏側で「関さんの森」のことをちょっとでも知っている人がいたら、「Seki-san's Forest」の英文字で探し当ててくれるかもしれない。

実は、よく似たことを「イチカシブラバン物語」で実証ずみです。
ヨーロッパ、アメリカ、東南アジアから見に来てくれるのです。映像のサイトだからでしょうね。


この英文はレスター・ブラウンさんの書簡の中から頂きました。


レスター・R・ブラウン(Lester Russell Brown、1934年-)-----アメリカ合衆国の思想家、環境活動家。


 


「ケンポナシ」はナシの味がするからこの名前に。これは日本人の感覚です。英語では「Japanese raisin tyee」これは形が干しぶどうのようだからです。面白いですね。
この話は第1部の「ケンポナシの四季」でします。



ケンポナシ










ケンポナシ ここにあり=2012-01-24




これは、1月24日に雪が降った時、待ってましたとばかりケンポナシの新しい姿を撮りました。

樹齢200年のケンポナシ君は、ここで永遠に生き続けるのです。

 

 








ケンポナシ親株 移植=2012-01-15


ケンポナシの根鉢を手前の四角い台に乗せる工事  9時15分


のんびり、いや訂正。ゆっくりと回す人


プロジェクト・リーダーの山下さん




手前から16メートル先へ移動


工事の大詰め 四角い土の台に乗せる


この写真で根鉢のセンターが狂ったことが分かります




この続きはYOUTUBE






ケンポナシの移植=2011-12-08



ケンポナシの若木が移植されました。

富士植木の山下さんの話では、樹高10メートル以上、重さは8.5トンも。根鉢は直径2.4メートル、高さ1.6メートル。そして、これは実生(みしょう)。実生とは種から育ったもので、そうすると2代目のケンポナシという訳です。




「富士植木」さんでは、関さんの森道路関係の担当者は始まってからズーッと同じメンバーです。
こういう姿勢だから生き物を扱えるのです。大したものだと思いました。

市の担当者は何人代わりましたか。覚えきれません。役人の世界はそういうものです。




新道、水戸街道側からケンポナシ方向の様子です。大きなクレーンのところがケンポナシ。

ところでこの道路、カーブが大きいですね。よくぞこういう道が造れたと、今更ながら驚きます。


朝日新聞千葉版で、東京外郭環状道路についてレポートしていました。

「追われゆく人々」(11月30日から3回)
その中の注目すべきは国交省の態度。

「売ってくれ。だめなら強制収用」
「 そうなったらえらいことになりますよ。ここで契約した方が・・・」

ここでも言えます。役人はそういうものなんです。


皆さん思い出して下さい。

2008年7月28日 

土地収用補償金周知看板設置にやってきた松戸市の責任者に対して、西山明行弁護士は言った。
「憲法29条 公共の福祉に反しない限り財産権は保証される。関家に伝える前に一般公示は順番が逆だ。引き取りなさい」

あの時の西山弁護士は「正義の味方」そのものでした。
私は西山明行さんの姿を忘れません。

 








どうぞ見て下さい 高校部活シリーズ第3弾

  M+24   ミドリ先生24人の仲間たち

元市柏ブラバン緑川裕先生
高校から楽器を始めた部員がほとんど
「市南吹部」
愉快な日々
スモール・バンド(B部門)も悪くない


おいなんて読むんだ?イチナンスイブ知らねえな

「市南吹部」は「千葉県立市川南高校吹奏楽部」のことです



変だぞ 緑の道づくり=2011-10-07







道路造りで道の姿が見えてきました。
市の道づくり課から3人が電柱について説明。
 「この道の両側の狭い歩道両側に電柱が建ちます。片側か東電で、もう一つがNTT」

 「ちょっと待ってちょ。新松戸地区の自動車道には片側だけの所もあるし、狭い歩道に電柱がボンと建っては本当に歩きにくい。なんで両側に建てないかんのか」

そんなことよりも、説明を聞く限り、緑を生かした道づくりの志がどこにも感じられません。
どうにかならんものかと聞いて見たが、そういう風に決まっているからしょうがないらしい。

けれどおかしいぞ。2009年2月5日に松戸市と迂回道路合意、調印した時に、川井市長は「市民と行政と地権者が協力して緑を生かす道路を造りましよう」と約束してくれたではありませんか。

途中経過は省きますが、2010年3月30日に松戸市と関さんとの間で取り交わされた「関さんの森の緑地の保全に関する覚書」に基づき「関さんの森の緑地保全と新設市道建設に関する協議会」が作られ、会長に稲田部長(当時)、副会長に関啓子さんと古賀都市計画課長が決まったではありませんか。

どうして電柱の件は、こちらから言い出して協議会の議題にしないのか。
関さん側も努力が足らないと思います。残念でなりません。

本当に、これでいいのですか。




 

道路用地から骨が見つかりました=2011-09-12


ケンポナシ付近の地下式坑から、馬の骨と人骨2体が見つかりました。

江戸時代までの日本の馬はかなり小型で、鎌ヶ谷市貝柄山公園に小金牧の野馬像があります。

江戸時代に幕府の軍馬を育てた「牧」を調査,研究して「房総の牧5部作」を刊行した歴史家・青木更吉氏は、まだ野馬の骨は見たことがないと話しています。ひょっとしたら、この骨は貴重な発見かもしれません。

時代劇映画に登場する馬は、大きすぎです。今は西洋式の大型馬しかいないものですから、しょうがない 。この骨を子どもたちに見せたら、スゲェ勉強になるかも。



鎌ヶ谷市貝柄山公園の野馬像




「牧」には日本独特の野生馬がたくさんいました


幸谷観音の絵馬に画かれている場所は、ここ(幸谷・福昌寺)から約6キロ北にある上野牧捕込(現柏市立第2小学校)だろうと思われる。 =中略=
牧士や役人、それと勢子たち20人余りで、他は見物人と商人で、140人近い人たちが描かれている。荷物を天秤棒で担いできたのは商人らしい。店はヨシズの屋根を張ったような屋台と露店で、飴細工、団子屋のような店が並んでいる。そこは買い物客が多く、お祭りのような雰囲気である。------青木更吉著「小金牧を歩く」より引用



この馬、歯の様子から大人の馬のようです。


馬の骨↑


人の骨↓



人の骨はケンポナシ移植予定場所で見つかりました、
教育委員会・峰村さんの説明では、この地下式坑は墓地ではないらしい 。

とすると、捨てられるようにして埋められたのか。---これは私の推測です。南無。

人骨は顔を右に向けています。

もう一体は、上の写真の脚立があるところから見つかったいうことでした。






骨が見つかったのはケンポナシ(中央の木)の向かって左手前付近。
中央の人々は、陶器の破片が出てきた様子を聞いているところです。




作業をする人々は、銀色の日よけを背にがんばっています。
前にも紹介しましたが、この銀亀甲羅スタイルは鳥取県のらっきょう農家のやり方を参考に自作したものなんです。
みなさん手際が良くて、発掘のベテランです。ご苦労様です。





道路完成は半年遅れます=2011-08-29


水戸街道側の取り付き口


子どもの広場


文化財調査中 中央はケンポナシ


松戸市 ホームページより

都市計画道路3・3・7号横須賀紙敷線(幸谷・二ツ木区間)につきましては、 平成23年度供用開始を目標に鋭意努力をしてまいりましたが、 現在実施しております文化財調査などが当初の想定以上の期間を要しているため、 平成24年夏頃供用開始予定となりました。



新松戸側取り付き口
右端の家が道路にかかります その建て替えを左に建築中


松戸市道づくり課の人達が説明に 何となく穏やかな雰囲気でした





埋蔵文化財調査見学会=2011-06-20


「関さんの森」わきの遺跡は「幸谷城跡」と言います。

小金城跡と根木内城跡は戦国時代の遺跡ですが、幸谷城跡は江戸時代のもので、時代がわずかに新しく、松戸新市道の場所からは深い地下式坑が見つかっています。
これはお墓か地下倉庫の可能性はありますが、骨は見つかっていません。
深い縦穴と地下室を持った遺構は、このあたりの特徴で、同じようなものは明治時代になっても作られていたという説明でした。

道路の向かいの家は道路になるため、年内になくなり、来年3月末までに新市道は完成となります。





大きな地下式坑 倉庫か墓か、江戸時代に作られたらしい

 



新道建設の進み具合=2011年06月10日
          


松戸市道づくり課職員による新設道路の現場説明会。下地図の×印のところで


写真と地図を見比べて下さい。色々分かります。


参考 市議会6月09日 石川龍之=公明=議員質問へ市からの返答。
2月25日に隣接3町会長に説明会、4月16日に住民による話し合い、5月14日に地域住民への説明会開催。通行量の増加が予想されています。




新道雑感2011年06月05日



この道はどこへ行く? 奇妙な道です






この落ち着いた雰囲気は過去のものとなりました=2009年5月13日




2011年06月05日の風景を続けます




ゲートボールや野球をやっていた「子どもの広場」です








↑↓新松戸側の道


関さんの森の今しかない姿を伝え、残したい

 



何となく あわただしくなってきました=2011-04-14









道路工事は5月より 側溝の埋設から始まります 完成は来年3月末





新松戸側に繋がる部分の遺跡調査 2011-04-14




   水戸街道に続く道 これは 2011-04-07





「活動の記録-r」『関さんの森を育む会』会報 第31号 に続く(クリック)


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