親子2代にわたる里山運動  関武夫さんについて



関武夫さんが本を出しています。
「写真で見る 自然と歴史をたどる散歩道 新松戸・北小金周辺」
平成2年(1990年)4月1日発行。自費出版です。

著者紹介がありまして、
1905年(明治38年)生 1994年没
学歴 東北大学、理学部卒 地質学
主な職歴 三菱鉱業株式会社 技術部。東南アジア、南米で鉱山開発。


青文字は美智子さんから聞いた注釈です。


関武夫さんには三人の子供さんがあり、美智子さん、睦美さん、啓子さん。
睦美さんは亡くなりましたが「むつみ梅林」に名が残っています。
啓子さんについてはこの
ページの下(クリック)で紹介しています。


上の本は2009年2月末に友人からいただきました。新品同様です。この本の持ち主は大変几帳面な方のようで、当時の新聞記事を切り抜いておられました。紹介します。

 関さんは昭和5年に東京高等師範(現在の筑波大)を卒業、山梨県の旧制都留中(現在の県立都留高)で3年間教壇に立った後、東北大理学部に入学、地質古生物を学んだ。14年に三菱鉱業に入社、石油、石炭などの発掘調査に携わった。
 松戸の自然保護を考えるようになったのは40年ごろ。8年ほど鉱山の発掘で南米へ行き、帰国してみたら自然がいっぱいあった家の周りが区画整理ですっかり変わってしまっていた。
 「このままではどうなるかわからん」と近所の人たちと自然保護を考える集まり「育森会」をつくり、市に開発反対を申し入れるなどの運動をしてきた。

 関さんは「植生を無視した開発は生態系の破壊につながる。都市化の波にもまれながらも残っている小さな自然を大事にしてほしい」と話している。





この本の中に子供の森の記述があります
子供の森は武夫さんが亡くなられた後1995年に自然保護団体に寄付されて関さんの森となりました



子供の森

 子供の森はの広さは3500坪(10950平方メートル)位ありまして、スギの大木を混えた広葉樹林であります。
 この森のあるところは平坦でなく、珍しく地形の変化が多いので、子供達の格好の遊び場となっているようです。
 今から十年以上前はこの台地は樹齢200年程度(目通り2〜3メートル、樹高30メートル程度)の見事なクロマツの林が主であり、遠いところからもあそこがトウカン山(後述)であると分かったものですが、その後、松くい虫の被害をうけ、次々と枯れてゆき一本もなくなってしまったのは残念でした。むかしはマツ林を渡る風による松らい(松風のこと)を楽しむ風情もありましたが、現在は殺風景になったものです。
 低いところは一面のマダケの林であります。もう十年以上になりますが、この竹林に60年或は100年に一度といわれる花が咲き、そして全部枯れてしまいました。現在のものは、いくらか残った地下茎から再生したものであります。この現象は成田方面からこの辺一帯に発生し、タケを商売にしていた人は福島県まで仕入れにいったそうです。しかしモウソウ竹にはこんな現象はおきませんでした。
 この森は周辺の開発が進み、緑が消えてゆくことを憂い、地権者が市の教育長と相談して自然を残し、子供達の教育の場にしようということで、15年程前に開放されたものであります。現在は市のこども課の管理下にあります。
 この子供の森一帯の丘は、地元ではトウカン山といっておりまして、むかしはもっと自然の姿が残っておりました。森の下草などにもキンラン、シュンラン稀にはクマガイ草などが目を楽しませてくれました。今でも日本古来の下草をなにかと見ることができます。





 トウカン山というのは、この山に稲荷の祠がありますが、稲荷を音で読めばトウカとなり、それがトウカンということになったのであろうと松下氏が解説されましたが、尤もな説である思います。
 お稲荷様があるせいかキツネに関する伝承がありまして、この山にはトウカン狐というキツネが棲んでいて、化かすので気をつけるようにと、いろいろ化かされた話が伝えられてきました。もちろん現在はキツネなどいませんから、こんな話は聞かれません。
 しかし戦前にはリスが松の幹をカタカタと爪音を立てて登る姿とか、イタチがけげんな顔をして振り返って、私達をジッとみつめる姿とか、竹薮からノウサギが飛び出したりするのを見かけたものです。これらの動物類は周辺の宅地化が進み、犬の運動場になるとともに次第に姿を見せなくなりました。
 しかし野鳥は色々と見られ、例えばオナガ、ムクドリ、ホオジロ、シジュウカラ、ツグミ、ヒヨドリ、ウグイス、セキレイ、モズ、キジバト、コジュケイなどが季節季節の自然を楽しませてくれます。稀にキジやヤマドリが姿を見せたり、またケンポナシのうつろにアオハヅクが住んでいて、夜になると例の寂しげな声で啼いたりしました。このうつろは何年か前の台風で、ケンポナシの梢が折れたときに、なくなってしまいました。
 戦前はこの辺りは禁猟区でなかったので、解禁になるとハンターがよくやってきました。鳥の宮様で有名な山階宮とか、賀陽宮も学習院の学生時代にこの山にハンティングに来られたことがあります。



 またこの山は歴史的には幸谷城の一部であったであろう、その証拠として土塁が残っていると歴史家は云っておられます。幸谷城のことは市の遺跡に関する出版物にも載っておりますが、戦国末期の天正6年(1537)高城胤吉がこの辺り一帯の地に幸谷城を築城したという記録が高城文書という資料に載っているそうです(松戸史談19号)。
 そう云われてみると、台地の西北の麓にある2カ所の湧水は、この城と関係があったのかも知れません。1カ所は今でも水が湧き、むかしは種々の水棲昆虫やイモリなども沢山いましたが、宅地化とともに消滅しました。
私の友人に今は故人にとなりましたが、二上さんという当時浅間山自然科学博物館の館長をしていた人がいまして、ある時、私がこの散歩道のコースを新松戸駅から子供の森まで案内したところ、その環境特に植物相に大へん興味を覚え、その保存方を力説していました。
 なお前に書きました湧水池の辺りに大きなケヤキがあり、根元から少し上で二股に分かれているのが珍しいということで、市の保護樹木になっています。


 






関さんの昔の母屋について





関武夫さんが、ご自身の著作「自然と歴史をたどる散歩道」(1990年発行) の中で、関さんの母屋について書いておられるので紹介します。


「分家(※関武夫さんの家のこと)の方は3年ほど前(※1986年=昭和61年)に腐朽のため建て直されましたが、約200年建っていたことになります。
(中略)
大正12年の関東大震災の時でもビクともしなかったそうです。むかしから萱葺きの屋根は葺いてから50年は保つと言われてきましたが、戦後の社会の変遷で、その補修が困難になり、ついに取り壊しの止むなきにいたりました。その直前に松戸市が市史編集に際し『松戸の民家』という項目を設け、市中の古い民家10軒ばかりを専門的に調査し、記録に残しました。この母屋もその中に含まれておりました。関東南部では珍しい曲り屋形式の家であったことが特徴のようでした」



松戸市史 下巻(2)1968年発行<大正昭和編>に「松戸市の民家」という項目がありまして関武夫さんの家屋が紹介されています。




ウマヤの部分は建て増しになりましたが、全体的には今の母屋の印象とあまり変わらないと思います。どうでしょうか。


関美智子さんがこんな話をしてくれました。

 「上の図の『ダイドコロ』の丸の中に井の印は井戸のことで、これは今も同じ位置にあり、電気ポンプでくみ上げて使っています。
井戸を掘ったのは父です。軍属としてスマトラに石油探査(地質学の専門家でした)に行っていて終戦でやっと帰ってきて、最初にやってくれた事でした。マラリアにかかりげっそりやせていました。1948年頃だと思います。
それまでは裏手の木の茂った斜面を下りて、今の湧水池の近くにあった井戸まで汲みに行ったので大変でした。その細道は今でも形跡があります。
手桶で水を運び上げていた生活が、手押しポンプの井戸に変わったのは私が小学校6年生の頃でした。


萱葺きの家に住んでいた頃(推測すると1975年)までの幸谷地区の雰囲気は開放的でした。昼間は誰でも入れるように門と台所の戸は開け放しでした。そうそう、ものもらいの人が覗くと母は急いでおにぎりを二つ作って渡していたのを思い出します。
私の母は一人っ子で、祖母も一人っ子。ですから祖母夫婦にとって娘(関美智子さんのお母さんのこと)が生まれた時はうれしかったでしょうね。生まれた日に桜の木を植えました。それが熊野権現さんとなりの106歳のソメイヨシノです。

さて、いま森のサロンとして皆さんに使ってもらっている建物は、父(武夫氏)が母屋を何とかして同じ萱葺きで建て替えようと思って、仮住まいのつもりで建てたもので、そうですね10年くらい住んだでしょうか。

その間も200年耐えた主家は空き家として残していましたが、萱葺きでの再建は無理だということになり、その代わり、関家6代にわたる屋敷林の木を製材して貯めておいたものを使って、瓦屋根だけれども、萱葺きの家とほぼ同じ間取りで建て直したのです。
チエリノブイリ原発事故のあった年(1986年)のことです



関美智子さん啓子さんの言葉には、父の志を継いでという言葉が良く出てきます。
お二人の「関さんの森」を、あしたの子どもたちに残したいと願う強い心は、お父さんの武夫さんがすばらしい方だったからだ、と私は思います。

最近こんなことを言った青年がいました。
「関さんの森以上に関さんの人間がいいんだよなー」


みなさんは、いかがですか。



それから、関さんはこんな話もしてくれました。

 「今は道路問題で私たちは大変ですが、市長さんは来られた時こんなことを言われたのですよ。

 『こんないいところ、もったいないわ』

それで屋敷を避けた暫定案を出されたので、もうちょっとがんばって欲しいという気持ちから私たちの希望(2007年11月提出案)を出したのですが、そこで止まってしまいました。
やっと話し合いの場が出来たと思っていたのですが・・・」



(※括弧内は大北記入)



今の関さんの母屋









関啓子さん
について


関武夫さんの三女・啓子さんは 一橋大学大学院社会学研究科の教授

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一橋大学の関啓子教授紹介サイト(クリック)

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参考

2006年5月22日に 一橋大学で
レスター・R・ブラウン氏講演会が開かれた時

パネリストをしておられます



(この前日にレスター・ブラウン氏は「関さんの森」を訪問)

その時の様子を伝えるサイト(クリック)





関啓子さんの著作 2009年1月